下石町、やきものの歴史

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このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

近代の摺絵銅版展 (2回)

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近代の摺絵銅版絵付
   平成17年2月1日~5月3日 下石窯元館2階展示 
    近代の摺絵銅版絵付け展冊子(桃井先生作)より

明治時代の美濃焼はすばらしい発展をしました。明治初年に下石の工業人口は約半数、人口流入が増加して窯業が盛んになり美濃焼きは日本一の生産地に成長しました。
日本の中央に位置し、窯業原料など地理的条件に恵まれていました。江戸末に創業した石質材から陶土製造に、水車による千木杵搗を稼動させ原料の供給に努めました。

窯株制度の廃止により、製陶業参入が自由になったこと、周辺の村からの転入者が工場労働を提供となり、さらに先人が窯業経営、機械化、窯の改良、近代化に努力したことなどによるものです。
下石の製品は機械轆轤成形でできない手轆轤による手造りの燗徳利、急須、土瓶、仏花器、壷、碍子などでした。陶工は窯ぐれとも呼ばれるすばらしい轆轤の技を所有し、代々技を継承し新人を育成してきました.。ろくろの里という特色をもち、製品から機械化できない分野でした。

絵付けは明治初年染付(絵付専門の職人による手描き)が中心で、徒弟制度により養成された職人が画工として従事していました。
明治10年代に摺絵が最高され、輸入ゴスや型紙職人の力を借りて、良品の絵付け方法が導入されました。絵付け専門の画工でなくても絵付けが可能となり、絵付けのコスト軽減、量産化、均一化、分業化が見られました。
明治20年代に普及した銅版は江戸期の再興でしたが、技術が向上して質のよい絵付けが摺絵より容易に質のよい絵付けを可能にして美濃焼きによく使用されるようになりました。
伝統的産業でありながら、絵付けでは近代的手法を取り入れて美濃焼きは隆盛しました。
国の機関からは「美濃焼きは美術品ではない」と厳しい批判を受けましたが、需要は増加し、日本の津々浦々まで陶磁器を普及させ、やきもの文化の普及に大きく貢献しました。

          摺絵

文様を透かし彫りした型紙を器面に当て、上から絵具を塗ることによって、絵付けをする方法です。
型紙絵付、型紙摺り、型絵ともいわれていますが、美濃では摺絵が一般的です。
桃山時代からの染職の型染技法が、陶磁器の絵付けに採り入れられたものと思われます。異業種の技術、道具、機械、絵画、外国文化などをたくみに採用しています。17世紀代に唐津、美濃で摺絵が認められます。陶磁器絵付けに早く採れる発展的、流暢性に富んだ人々が窯業をリードし普及したようです。
17世紀末から18世紀初頭の有田染付磁器製造に型紙絵付がなされましたが、途絶えてしまいました。
下石では江戸中期の桜ケ根窯、清水窯等の製品に鉄、呉須の摺絵が用いられていますがこれも途絶えてしまい、型紙絵付の技が未熟で、染付製品より質が悪くなってしまったことによると思われます。
明治になり、摺絵は改善され再開しました。明治4年(1871)の肥前志田焼製が最古といわれています。
明治14年(1881)第二回内国勧業博覧会に型紙絵付が新技術として実用化の状況が発表されていて、砥部、美濃など各地に技術が伝えられています。
明治15年()1882)美濃で伊勢白子から型紙職人を招いて、型紙の質を高め、輸入コバルトを用いて鮮明な藍色に発色させた近代摺絵を完成させました。窯業の近代化と深くかかわったものでした。
明治20年(1887)頃、銅版絵付が導入されると、摺絵は衰退していきました。摺絵は短期間でしたが、展示品(二階催し)のような良い製品を生産しました。

            銅版

銅版絵付のことで、銅版を印刷原版とする転写技法です。 銅版画は我国では司馬江漢が天明3年(1783)に銅版画を創製しています。これを陶磁器絵付に応用したものです。
江戸時代瀬戸陶工、川本治兵衛や稲津の里泉焼で銅版絵付けがされましたが、工程の煩雑さ、技術の未熟さ、呉須の質の劣ることなどで発色が薄く、生産効率が悪く中絶しました。
明治19年(1886)  肥前有田、牟田久次が改良を重ねて再開し、肥前各地に普及させています。 
明治20年頃、京都五条の五十嵐健二が下絵銅版を試みており、翌年美濃土岐津に招かれて試作しましたが失敗しました。
この年多治見の加藤元治郎、米次郎が名古屋から銅版彫刻師を招いて製法の指導を受け、のちに岐阜県陶磁器講習所の嘱託教師となる太田能寿の協力を得て銅版絵付を完成して、明治22年(1889)特許を得ました。
銅版絵付けは急速に普及し、妻木、下石、駄知、肥田などで銅版印刷業が始まり、美濃の銅版印刷は全国の陶業地に好評を受けました。
器面に水を使って塗布し、銅版紙をはぎとり貼絵方式で絵付けしますので、絵付が簡単で効率が良く第二次世界大戦まで絵付の主流でしたが、大戦後衰退していきました。
近年は転写による絵付けが多くなっています。

          参考文献  美濃焼の歴史      日本陶器大辞典

                原色陶器大辞典    下石町誌「ろくろの里」
 

     

染付摺絵・上絵銅版型押し展摺絵銅版(下絵・上絵)の文様について
           平成17年6月1日~9月30日下石窯元館2階催   

美濃焼が陶器から磁器へやきものを変えたことは大変革であった。肥前の老婆が「美濃焼は泥で作り、800度で焼くが、肥前は石粉から作り、1200度で焼くから・・」と語ったように粘土から石質原料に変更したことは、やきものの質を向上させた。窯も本業窯(陶器窯)から丸窯(磁器窯)に転じ、焼成温度も400度以上高温焼成となった。酸化焼成から還元焼成と焼成法・窯体を改良した。詳細は「登り窯ばんざい」に記されている。やきものが白くなり、水の浸透性はほとんどなくなった。さらに美濃窯のあゆみの中で、器面に描かれた文様の種類と量の多さである。器面全体に文様をつけて素地土をかくしてしまう手法は初めてで、絵付の面でも大きな変化がみられる。
絵付の内訳をみると、その多様さに驚く。これは染付から摺絵・銅版によって画工としての技術がなくても描かれるようになり、スピードが増し量産ができるようになった、摺絵銅版は窯元が購入して使うようになったなどによる。窯業の分業化など近代化が見られる。
 (1) 主文様
 1. 日本画  中国画のやきものに取り入れられた山水画・風景画が海・川・山・田園で二見ケ浦・富士山・竹垣・二十橋などで摺絵は数種あるが、銅版は多様で種類も多い。
 2. 動物文  動物では馬・猫・虎・鹿・熊・牛・蟹・兎・金魚・鯉・鮭などである。「猫と穂草図」は人気があるという。昆虫では蝶が多い。
 3.人物文  唐子・賢人・恵比寿大黒・弁財天・牛若丸・小野道風・坂田金時・八幡太郎義家・楠正成・児島高徳・花咲爺・美人画などの故事、由来、歴史上の人物が多い。上絵付の小皿は美人画が多い。 
 4. 空想の動物文  鳳凰・麒麟・龍・獅子・などで銅版画の細密画の中には面白いものが多い。
 5. 鳥類文  花鳥図・鶴・孔雀・鴨・山鳥・雉・鵜・鷺・鳥・鶉。不如帰など。 
 6. 草木文  松・牡丹・梅・桜・菊・木蓮・芭蕉・菖蒲・石榴・椿・桃などがあり、複合されて描かれている。
 7. 開花図  軍旗・帆船・凌雲閣・造幣局・鹿鳴館・扇面・金魚玉・生花・汽車・双翼飛行機・船・城郭・カルタなど時代によって特徴がある。「文明開化」「日清・日露戦争」物が多い。
 8. 図案文  捻文。投網文・微鹿文など抽象的なものが多い。


 (2) 枠文様
 1. 角皿の周辺部分が主文様の額縁に相当するところに描かれた文様であり、花柄・吉祥文・つぶし文などがある。やや大きな角皿、隅切り角皿は明治期に生産という特色を持っている。桃山陶に四角形の器が登場し、陰陽のうつわが生まれたが、明治期にはさらに美術的飾り展示物として使用されるようになった。
 2.枠の四方や隅切部に窓を作り、その中にも吉祥文・松竹梅・鶴・富士・リス・六歌仙・カルタなどが描かれている。また隅に亀甲文を入れるものもある。
 (3) 裏文様
 1. 角皿の額縁部分の裏面に描かれた絵柄・文様は革文・枝文・唐草文・七宝文などである。肥前窯・美濃窯・瀬戸窯・砥部窯など窯場により、また窯元によって特徴があり面白い。その他の器種にも裏面にも裏文様が描かれている。表より量は少ない。駄知山文の器では、裏文様も全面に文様をつけた例もある。
 (4) 記銘
 1. 高台内に記銘が染付・刻印・銅版などで記してある。玩・上・朝・大日本山治製・清陶所造・田角冨・山田製・手塚製・有権専製・山文・中嶋製丸久など。
 2. 記銘のある器種、量は少ない。
 (5) 記銘の文様の特徴から、京都鹿背山銅版川治銅版・中島銅版など呼ばれるが、各地の銅版転写を製造業者から窯元が仕入れるので同じ図柄があ。。同じ図柄の器では美濃の銅版屋が写したものもある。従って文様だけで産地は特定できない。
 明治11年(1878)岐阜県令(知事)から美濃焼改善について指摘を受け改善に努めた。銅版で絵付けしたものと手描(染付)された製品が東京市場で同価格で販売されていたこと、生産経費削減となること、分業化、専門性による量産体制により生産量が増加し、生産調整がなされるほどになった。
 銅版のよさを生かし、銅版絵付の製品が内国博覧会で多く入賞するようになった。銅版の技術の向上、貼り付けの技の向上などにより質の高いものになった。上絵付けが入り色が多彩になった。
 磁器は九州から約200年おくれて創業されたが、短期間に技をみがき九州に追いついた。
 

参考文献 岐阜県陶磁器資料館「明治の摺絵・銅版」1996
 多治見市文化財保護センター「研究紀要第6号 銅版下図案集」2001 
 土岐津町編集委員会「土岐津町誌」


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1616 元和元年  ・李参平有田天狗窯で白磁焼成(磁器創始)
1658 万治元年 ・妻木氏廃絶する。妻木氏私領幕領(天領)となる。
江戸中期 ・鉄山呉須の摺絵はじまる。
1777 安永六年 ・杉野分助、釉石 釉を筑前に赴いて求め磁器の焼成に成功。
 砥部焼の始まり (大内優徳「伊予の磁器」 雄山閣出版)

1791 寛政三年 ・御荘 菊川焼始まる(同上)
1791 寛政八年 ・瀬戸村等3か所より美濃の新窯差し止めを願う。
 窯株天領24株私株14株、駄知4株

1801 享和元年 ・瀬戸村で新製染付焼に成功
1802 享和二年 ・尾張藩蔵元制度創設 徳利売捌きについて文書初見
1803 享和三年 ・美濃焼尾州御国産となる。
1804 享和四年 ・この頃より市之倉にて新製焼はじまる。
1808 文化五年 ・市之倉郷 下石村 笠原村 高田郷より新製窯取立てを願い出る
1824 文政七年 ・円治徳利の仲買いを始める。
1826 文政九年 ・円治新製焼物買い始める。
1835 天保六年 ・多治見村に美濃焼物取締所設立、美濃焼物市規定とりきめ
1840 天保十一年 ・京都の五条坂窯で京都絵師の雲洞中川利三郎(後の豪商 芝川又平)が、この年に 磁器
 染付プリントを転写するのに成功させた。
(三好一「幕末明治のプリントウェア」The骨董9号 読売新聞社)
・五条坂より京都府南山城で鹿かた山銅版転写が始まる
・蘭学銅鐫(どうせん)界の取締りがあり、江戸の銅鐫界は致命的な打撃を受け銅版鏤刻
 の中心は、江戸を離れて、尾張以西の上方へ移った。銅版師梅山翠山は「銅版は幕府
 の忌む所となり、公然為すを禁じられたり ために東都に弘化の頃、その人あるを聞かず」
     (春田明「江戸時代の銅版紅毛文化(3)」陶説359号日本陶磁協会)
1846 弘化三年 ・美濃では江戸の銅版師笠井大五郎が、稲津の里泉窯で銅版染付磁器を焼成
(瑞浪市史他)
・笠井大五郎は瀬戸焼に銅版法を伝える。その後美濃下石 駄知方面へも伝播させるこ
 とになる。(瀬戸市史陶磁編3)
1848 嘉永元年 ・瀬戸では名工の誉れ高い川本治兵衛がオランダ製の銅版転写による磁器を見て、自らの創意工夫による瀬戸磁器に染付をプリントすることに成功した。(三好一)
・その後治兵衛の弟子加藤新七が川名銅版焼(名古屋市昭和区川名山町)を始める
 浮草牡丹唐草がどの作品にもある。
1850 嘉永三年 ・栗田の陶工 丹青海が陶磁に精密な銅版画を転写することに成功した。(三好一)
・恭邦和尚 井筒六兵衛 、小木曽定平、和田政七らの参加協力により、水車利用の千
 本搗法創始。
1859 安政六年 ・箱館焼始まる。
1862 文久二年 ・紺青を領外に持ち出し禁止される。
1868 明治元年 ・下石の深沢で有牧の加藤和助、蛙目粘土発見。多治見粘土に販売。
1869 明治二年 ・木股島去 肥田蛙目発見 上肥田水車稼動
・来朝したドイツ人のワグネルによって新しい西洋の知識と技術が導入される。これを出発点と
 して西洋コバルトの応用が肥田前有田に始まる。
・土岐郡騒動(7月16日)
・土岐郡に150軒水車があり染付磁器業窯8基となる。
1870 明治三年 ・益見で藻珪石石粉製造を水野為助創業。
・土岐郡の登窯106基、997室。
1871 明治四年 ・水上の永井徳右衛門  小木曽増右衛門 製土業始める。
・窯株蔵元株が鑑払制となる。
・下石製陶戸数57戸、登窯12基。
1872 明治五年 ・加藤助三郎 東京に陶器舗を開く。
・笠原干倉石産出。
・窯株蔵元制度廃止。鑑札制度実施。
・多治見 大藪 大針町で宮島竹次郎カオリンを採掘。
・安藤与平次 釜戸 細根で釜戸長石発見。
1873 明治六年 ・珪長石を原石とする稲津陶土の製造。
・水車73輌 杵数587本、業者70
・美濃焼生産高4.000万個、約3万円。
・陶磁器下絵具。酸化コバルト多治見に入り染付に使われ始まる。
・オーストラリアウィーン万国博覧会出品。
1874 明治七年 ・梅村翠山の門人、中川耕山が銅版技法を研修のためアメリカに渡った。帰国後凹版刻銅版に精通し、銅版染、銅版蒔絵、銅版陶画焼付を発表。(春田明)
・備前の松尾喜三郎が型紙絵付を復活させ後に銅版転写の技法も取り入れた。(町田市立
 博物館「明治印判史の磁器」
・須之宮で土屋又助、石粉製造始める。
・美濃焼生産高3.800万個、生産額172.000円、全国の26.4%を占めて全国一位となる。
 (児島氏産業史)
・下石登窯8基、88室、製陶戸数37戸。
1877 明治十年 ・加藤亀太郎、絵の具製造を専業とする。(赤絵の具専業者誕生)
・多治見の加藤貫一 釉薬の中に石灰石を入れることを発見。
・土岐郡の生産額183.688円。
・伊藤充譲(五松斎)五本末に開業。備前陶工を招き型絵付技法習(太田優徳)
・御荘焼(南宇和郡恩荘町長月)創業。
・広島県賀茂郡高屋町小谷に小谷窯開窯、職人は砥部から来て型紙染付をした。
 明治30年廃業(村上正名 広島のやきもの)
・備前の型紙彫刻師の串田久次が有田に来て彫刻を始める(町田市博物館)
1878 明治十一年 ・県令 美濃陶磁器の生産改善点について指摘する。
・加藤五輔 パリ万国博覧会で名誉賞受ける
1879 明治十二年 ・鈴木義右衛門 肥田蛙目を採掘する。
・西浦円治オーストラリア シドニーで万博に出品。
・輸出は307.000円で、生産額の19.4%
1881 明治十四年 ・輸出は811.000円で、生産額の51.8%。
・下石村、石粉水車34輌 陶土工場2 コバルト製造1
 商業戸数32戸、中馬36頭、荷車2輌。
・陶磁器の県下の生産額の88%東濃市場で専有。可児、恵那を含めると、98%を占める。
・土岐口蛙目粘土強粉採掘始まる。
1882 明治十五年 ・輸出は生産額の52.8%。
・脇之島(多治見市平和町)上田幸右衛門は伊勢の白子(鈴鹿市)から型紙職人3人を招き
 型紙を造り、脇之島の窯で、磁器染付の碗を焼く。
  (多治見市教育委員会 美濃窯のやきもの)
1883 明治十六年 ・美濃焼の産額は全国の四分の三を占め輸出は全産額の59.9%となる。

1884 明治十七年 ・京都の武田広吉 脇之島で型紙切りをする。
・土岐口窯元 土本康兵衛 深沢で蛙目を採掘。市之倉に売る。
・土岐、恵那の製陶業1208人。
・遠州三日日村出身の猿爪の中村弥久郎 太白素地の研究に成功。
・扇状の牛酪皿を製造。
1885 明治十八年 ・備前の島内九一は脇之島で型紙染付をし、その後、駄知、笠原でも型紙彫りをやっていた。
 摺絵による磁器染付は今の瑞浪市、土岐市、笠原町へも広がり盛んになる。
 (美濃窯のやきもの)
・妻木村の水野勘兵衛、フランス風薄手コーヒー碗皿の製造に成功。
・輸出品は名古屋へ素地出荷、絵付は名古屋でする。
・土岐郡製陶業534年 12時間労働。
・土岐口追沢紺青摺り終わる。
・猿爪村の曽根庄兵衛 靖国向 白磁丼を製作。
1886 明治十九年 ・市之倉旧窯跡に丸窯を築く。染付花瓶、肉皿、コーヒー碗生産。
・下石製陶業組合設立。
・美濃陶磁業組合結成。「陶磁器専製の證」の発行。
1887 明治二十年 ・西浦円治が西浦焼上絵付工場を設立し、大岳彦兵衛を起用し、輸出品を製造する。
・土岐郡製陶業581戸。
・明治20年を過ぎると銅版染付が再び実用生産される。この付近では名古屋から銅版彫刻師
 を招き、製版法を教わったと言われる。この技法は美濃窯全体に普及し、現在まで受け継がれ
 ている。(美濃窯のやきもの)
1888 明治二十一年 ・五十嵐健二なる人物が京都五条坂で銅版応用の転写印肉に白笈を使用し、美濃土岐津において実行した。この法は簡便なるうえ工費を省くので美濃から瀬戸有田本郷などへと伝播して
 いった。(春田明)
・下石製陶業66戸、職工157人(女子1名)
1889 明治二十二年 ・明治22年に大阪に九階建の陵雲閣と称する展望塔ができ翌年負けじと東京浅草にそれより三階高い十二階建の木造れんが造りの浅草陵雲閣が開場した。関東大震災で破損撤去した。
 (佐藤武久「染付開花絵の美」小さな蕾185号)
・太田能寿が素地に転写する画期的な転写紙の特許をとっている。これに印刷した書画を素地の
 陶磁器に貼付し、裏面より湿気を与えてその紙を剥ぎ取れば模様が転写されるので、それから釉
 薬をかけて焼成する順序であった(春田明)
・西浦円治、名古屋に上絵付工場設立。
・多治見窯町の加藤米次郎、加藤元次郎、太田熊寿、下絵銅版を開発、実用化する。
・下絵洋銅版印刷  妻木 水野俊作、下石 水野錦一郎、駄知 水野儀三郎。
 肥田 渡辺宝一創業
・染付の量産に銅版印刷を使用。
1891 明治二十四年 ・駄知で馬車が使用を始める。
・濃尾大地震。土岐郡193基の登窯のうち188基被害を受ける。損害額39.275円。
・肥田銅版三五皿を製造を始める。
・甘原で千倉発見。
・下石登窯被害26基、201間、8.128円、山崩れ1ヶ所。半壊10戸、全壊5戸。
1893 明治二十六年 ・中村弥九郎、名古屋に製陶工場を作る(名古屋製陶)
・駄知マルス水野喜兵衛横浜で上絵付を研究して帰郷する。

1894 明治二十七年 ・滝呂の松原領右エ門が欧州向けの下絵細密画の手作り薄手コーヒー碗、肉皿、パン皿、ケーキ皿を製造した。
・東濃で硝子の製造始まる(通信用)
・西浦焼尾張坂窯創業。
・土岐郡製陶戸数648戸も、生産額883.302円、
 銅版絵付12銭、型師40銭、ろくろ工25~35銭、画工35銭
1895 明治二十八年 ・上絵具商 加藤米次郎 ヤマヨネ絵具製造所創業。
・岐阜県陶磁器業組合設立。
・加藤小三郎 上絵銅版(赤絵)開発する。特許三五皿 駄知丼
1899 明治三十二年 ・黄呉須の実用化
・加藤助三郎 南アメリカに陶磁器輸出の途開く。
・柴田千右衛門 輪花菊花文皿製作。
1900 明治三十三年 ・飲食器具取締規則公布。陶磁器の上絵の鉛毒問題起きる。
・土岐郡立陶器学校となる。
1901 明治三十四年 ・多治見の小栗国次郎 石版転写印刷による転写上絵技法を開発する。
・美濃陶磁器同業組合設立(陶磁業600 陶器商 40 焼付業60)
1902 明治三十五年 ・名古屋で松村八次郎が石炭窯で初めて焼成する。(硬質磁器)
・籠橋休兵衛 赤井茶壷を中国に輸出する。中央西線 中津川まで開通。
・下石 林清九郎 高圧碍子の製造開始。
1903 明治三十六年 ・多治見の小栗国次郎、森鉄吉らによって陶磁プリント用専門の森村印刷工場が設立される。
・各窯業家は画工がいなくても、これらのプリントを好みに応じて購入し、転写し、絵付が出来る時代となった(三好 一)
1904 明治三十七年 ・土岐郡陶器学校に石炭窯築窯する。
・美濃焼不況となる。
・肥田 肥田桐三郎 平井惣右衛門 石炭窯を焼く。
1905 明治三十八年 ・多治見の船戸政市 銅版印刷用紙の製造を始める。
 北村友一 船戸喜右衛門 北村角次郎も創業。
・釜戸長石を採掘。
1906 明治三十九年 ・美濃焼製造戸数1070戸。
・日々野新七 上海に山竹商店を開く。
1907 明治四十年 ・堀江元一 京都茶碗製造を始める。
1908 明治四十一年 ・土岐郡陶器学校を改称。
・名古屋港 貿易港として開港。
・土岐陶器学校に足踏轆轤2台入れる。
・肥田村 肥田桐三郎 平井惣右衛門石炭窯築く。
1909 明治四十二年 ・土岐津上田 虎沢九郎 石炭窯を築き研究。
・陶磁器大下落。不景気。蛙目採掘業120戸。
1911 明治代十四年 ・中央西線全線開通。陶磁器貨車輸送始まる。
・銅版転写業 多治見本郷7戸。
・駄知鈴蘭部組合設立。
・下石製陶戸数135戸。登窯42基。石炭窯6基。生産額52万円。
1912 明治四十五年 ・駄知 多治見に倒焔式石炭窯設置。
・妻木8基石炭窯出来る。
・肥田 中国向 三寸六分丼 煎茶碗生産開始。
・肥田村で水車を窯業の動力に使う。  










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