下石町、やきものの歴史

下石町、やきものの歴史の

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このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

町名の由来

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「下石」の地名は
               以下の文は陶器祭り用パンフのため寄稿していただいたもの

応永34年(1427)6月5日の長寿丸(土岐明智頼秋)の知行状に、「土岐郡妻木郷 颪(おろし)郷・武儀郡神の・・・・」と記された「颪」が下石の所見です。
妻木郷は建長元年(1249)「美濃国妻木保)暦応2年(1339)「妻木郷の地頭に土岐頼貞の孫、頼重を任ずる」のように下石より古いです。
当時は下石は妻木郷の一部でした。

妻木郷の山から吹き下る風下にある低地、妻木の高い所より低い土地一帯として、発展して独立した郷を颪郷としました。
明治7年まで颪村であった恵那市明智町横通りは、明治8年(1875)颪村と柏村が合併して横通村。昭和の町村合併で明智町横通り。平成の合併により恵那市となりました。現在は小字の颪は、恵那市串原木根の山頂から急斜面を下った明智川の流域です。
山頂から山颪が吹く木根から見ると低い土地です。こうした土地を颪(おろし)と呼んできました。戦国時代に村落名を下石としました。下に石を付したのは、妻木川の急流が山地から石を運び、平坦地を流れる土岐に川原に石を堆石させた状況の土地の特徴から昔は継承して文字を下石としたようで、この村に住んだ武士は下石氏でした。
江戸時代は下石村となり、大正8年(1919)7月1日下石町に、昭和30年(1955)2月1日、町村合併で土岐市下石町となり、現在に至っています。
下石と同文字の村が、鳥取県気高郡にあります。明治22年(1889)市町村制実施により気高町下石となりました。呼称は「オロシ」。鷺野山。古仏谷山麓にある土地です。同音語ですが「卸」と文字が異なる町が北海道北見市卸町です。
他、「尾呂志」の文字の土地が三重県御浜町尾呂志です。明治21年(1888)合併して御浜町尾呂志となりました。

下石の学名
昭和の大合併まで一村であったのは、土岐市では、下石 妻木 曽木 駄知ですが字名は変化しています
江戸時代初期   本郷  中神  山神
文 化 年 代   窯  清水  中神  山神
明      治   阿庄 浦山 窯屋敷 清水 山神 貢
大      正   駅前(駄知線下石駅開設)
昭      和   阿庄上・下(1区)  浦山(2区)窯屋敷(3、4区)
            清水(5、6、7区) 山神(8、9区) 貢(10区)
            駅前(11区)  石拾(12区)

下石の自然

日本三大はげ山が緑豊かな山に変貌しました。
100年余にわたる砂防、植林の努力と技を世界に誇れます。

・降水量 年1100~1990mm  雨の日数50日前後
 晴れの日数160日前後 岐阜県下では雨少なく乾燥地
・気温、平均気温 13~15℃ 最低気温-12.5℃~-6.5℃
 最高気温33℃~40℃   多治見同様暑い地域です。
・粘土層(陶土)が多く、土地はやせ地で、樹木の成育条件は悪い。
 粘土層(陶土)を土岐砂礫層が被覆していて粘土の露頭部は湿地となっています。山の中 腹以上にも湿地のあるはげ山で特徴ある植物が成育しています。

・はげ山の原因は永年の紺青掘、陶土採掘、窯業燃料等の乱伐による江戸時代、尾張からの苦情申し入れにより砂留、自普請に始まり、昭和30年代に完了しました。
・はげ山期は雷雨が多く、雷銀座の異名があったが、緑豊かになり減少していま す。
・南側が高く、北も南も妻木谷により開かれている盆地でフェーン現象が起きやすい。夏は妻木川を吹き上げてくる川風が卓越し、場所により、風向きはまちまちです。
下石地図


「下石」のやきもの
創業以来、時代とともに焼成するやきものは、山茶碗・古瀬戸・黄瀬戸・瀬戸黒・志野・織部・御深井などと変化してきました。やきものが変化すると窯も変化し山茶碗を焼成した窖窯、古瀬戸を焼成した半地下式窖窯、黄瀬戸、志野などは地上指揮となった大窯、織部や御深井は連房式登窯(地上窯)焼成でした。
江戸の中頃には登窯は横サマから縦サマに窯構造が変化して焼き上がりがよくなり、幕末には登窯は従来の登窯のほかに磁器窯も出現しました。本業窯と丸窯が導入されています。

明治20年代に登窯は巨大化、昭和に更に大きくなり、昭和30年代、登窯はほとんどなくなりました。明治末に同に有された石炭窯は、石炭亜ス炭の燃料が重油燃料を変化させ、焼成助手(たんとき)を必要としなくなりました。窯体もトンネル、シャトル窯も出現しました。
重油からガスを燃料とするようになり町からレンガ造りの煙突が消えていきました。現在はガス、重油、電気の窯が稼動しています。
陶器、炻器、磁器、セラミックスの特性を生かした次のような器種が生産されてきました。
徳利、湯呑、汁次、仏器、急須、花瓶、柱掛、香炉、丼、皿、鉢、輪立、掛花、箸立、茶器、神器
ソバ壷、味噌壷、便器、肉皿、コーヒー碗、コーヒー皿、スープ皿、コップ、洋皿
卵差、陶枕、砥石、爪きり、碍子など電気器具、土鍋など多器種で形、大きさも多様です。
機械ろくろ成形できない製品も多く、手ろくろ成形の多くは形、大きさがさまざまで棚詰焼成が下石の特徴でしたが、鋳込み成形が導入され、前記製品が容易に大量に生産されるようになりました。
日本一の生産量を誇る徳利をはじめ、多器種のやきものを全国に出荷し、大正末年には日本全国に陶磁器を普及させて食生活を高めることに貢献しました。

地区名の由来
窯屋敷
本来は屋敷地の意である。村の小字名となった。屋敷をかまえる所は平坦な地で高台である。颪郷として独立後に、陶祖など窯屋が屋敷を構えるようになり、それを窯屋敷と呼んだのが集落名となったものである。窯屋敷の文字を使うのは、茶の関係する器を作る人々の住む屋敷、窯のある屋敷ともとらえられる。―屋敷名が集落名になったものである。居住地として最も適した地で、本郷とも呼ばれてきた下石村の中心地である。

桜ヶ根
桜ヶ根の根は桜がある山麓地をさしている。窯屋敷一帯は桜ヶ根でもある。桃山陶を焼成した大窯登窯が最初に構築された地である。桜ヶ根は、窯屋敷側、裏山側両方にあることになる。


浦山 裏山
浦山は地形から生まれた地名で、湾のような地形をさす。浦山川を下流から上流に上ると、湾状のような地形で、上流部は左右に広がり、湾形にみられる。裏山は、本郷を中心にみた呼び名で本郷(窯屋敷)の裏側の山麓にある集落であることから、つけられた集落名である。長野県諏訪郡の八ヶ岳山麓地、茅野市、原村など広い範囲を山浦と呼んでいる湾状地形から諏訪盆地の中ほどの山の裏側のるあことの両者からこのように呼ぶようになった。下石最初の大窯は、大窯立地の条件から桜ヶ根の裏山川に面した裏山に構築されたものと思われる窯屋敷とは表裏一体である。

阿庄
下石川、阿庄川の氾濫などにより、水害が多く、居住困難な地であったが、土木技術の進歩、領主の開拓の意向を受けて、本郷の人々が開拓した地で庄とした阿をつけて阿庄(あしょう)それを「あしお」と呼んでいる開拓地からつけられた集落名である。

山神
本郷より上流部、上手の山地帯をさす。その山には山の守護神がおられるとして神聖地から本郷下石川上流のカミテに山を後にもう一帯を山神と呼んだ。ヤマカミに「山神」の文字をあてた。


中神
本郷と山神の間の位置にある一帯、小坂から常福寺の辺を中神という。

天正10年、本能寺で織田信長は、明智光秀によって死亡されられた本能寺の変でも下石を含む妻木勢は明智軍に属して、本能寺を攻めて天下をとったが、山崎の全戦で豊臣秀吉等に敗れて、多くの死者を出し、妻木城主等は、坂本城で自尽(自殺)した。多くの将兵を失ったこの地を豊臣軍の武将兼山城主森氏は攻略していったその時、戦うもの降参するものがあり、戦場となった。戦い敗れた人々は、逃げたり隠れたり悲惨であった。この時のようすを伝える話が各地に残っている。下石、山神温泉、傷をおった武士が湧き出る水を傷口につけると、いつのまにか治っていった。

全国各地に伝えられている。


土岐津 追沢のふたまたの竹

兼山城主森武蔵の家来豊島市之亟が妻木氏の茂塚六兵衛を追って追沢にやってきた。 六兵衛は、隠れ家を探し、ある農家のばあさまに金を与えて天井裏にかくまってもらった。 豊島市之亟がまもなくやってきて、敗走武士は知らぬかと老婆を訪ねたが、金をもらっているので返事 はしなかった市之亟は、ばばに金を与えて再度問うと、金に目がくらんだばばは、六兵衛との約束を破 り、天井を指さしてありかを教えた。市之亟の家来ら安心して隠れていた六兵衛は刺殺された。 老婆の死後、この家に住むものがなく、住むと家族の誰かが死ぬか、重病になるか血を見なくては死ね ないというようになった。また二俣の竹が生えて六兵衛の恨を後の代世まで残したという。

コウクリュウ様
高山城の落城、妻木の敗走など森氏に攻略に生まれた話である。下石の裏山のはずれ、土岐津栄楽にあ るコクリウ様についてはつぎのような話が伝えられている。 戦国時代というと、あちこちで戦があったころのことじゃ。高山城の殿様は平井頼田で奥方は、子ども の乳母をしていたが、大変やさしく立派な人であったので、奥方になおしたということだ。奥方は夫に つかえ、家来にやさしい方であったそうじゃ。 ところが、兼山城主森武蔵森長可は自然に恵まれ焼きもの生産地の里がほしくてほしくて、ついに塞神 峠より攻め入り、高山城を攻めたんだ。平井頼母は、出陣の前に家来の小池幸重亟を呼び「幸重亟、今 度の戦い敗れるは時の運じゃが、女、子どもは不憫じゃ、なんじは妻子の安全をはかり、無事に落とし てくれ。たのむ」といわれ。幸重亟は、殿と共に戦いたかったが、主人のいいつけに逆らうことは出来 なかった。「は、殿、承知仕りました。命にかえても奥方を無事にお落とし致します。ご安心ください」 と答えてしまった。「幸重亟、さらばじゃ」

「殿、ご武運を」 主従は左右に分かれた。幸重亟は一刻も早く奥方をお連れしなくてはと、奥に入り逃れた。高山城から 裾の道を西に進み、西山の尾根に出た時には、高山城からは黒煙が立ちのぼっていた。この様子をみた 奥方は殿の身を案じ、振り返り、振り返り歩むのために、遅れ勝ちになるので、幸重亟は気がせくのだ が、どうにもならなかった。山道を栄楽まで来たとき、兼山勢の先鋒は西山沿いに妻木に進攻を開始し た。女、子どもは目立ちやすいものすごい勢いで進む軍勢に気づいた幸重亟は、「奥方様、早く妻木の 中垣助右エ門のもとまで落ちのび下され、身共はここで敵の軍勢を塞き止めます。」 「幸重亟、すみません」「早く、早く」と幸重亟は急ぎ立て、身を隠して軍勢を待っていた。 奥方の一行は見えなくなった。「どうか無事で」と祈りながら、愛刀を抜いた。伏兵なんかないものと 安心しきった兼山の先鋒隊は、近づいてきた。その前面に躍り出て、先頭の兵を切り倒し、次の兵に打 ちかかった。 不意をつかれた先鋒隊もすぐに立ち直り、 「敵は1人じゃ、打ちかかれ」と取り囲み、討とうとした。幸重亟は、取り囲まれる前に、討ち果たさ ねばと動き回って戦った。 しかし敵は大勢じゃ、見事に討ち死にした。 その間に奥方は妻木まで逃れ、妻木も危険だと悟った助右エ門は、人をつけて品野へ落としていった。 戦いが終わってから、幸重亟の壮烈な討死の姿を見つけた里人は、その心をたたえ、手厚く葬った。 そしてコクリュウ様を祀った。それから里人の守護神となった。村の発展となったという。 身を捨てて奥方を助けた尊さを伝え、今も、祭りが続けられている。 平井頼母の奥方が高田の土岐川沿いの東家に逃れたという話。 駄知の千古岩の話などがある。 下石などが戦場となったのは、本能寺の変後と関が原の合戦である。 今も語り継がれている話は、本能寺の変の郷土の戦いの結果から生まれたものである。




下石町 人口の推移
江戸時代幕府の方針により、戸数増加は小さい。(江戸) 製陶業隆盛、陶工として転入者多い。物価は高くなり土岐郡騒動発生(1869)

 明治13年工業従業員が46%となる。陶磁器製陶業急速に増加。
 美濃焼生産量日本一となる (1811)                   
 30年間の戸数2倍、人口は2.5倍増加。工業化進展と関係している。(1911)
 工業化が進み、転入者が多く、戸数人口増加大、米騒動発端地となる。(1926)
 世界経済恐慌起こり不況となり、女の転出が男より少なくなる。(1930)
 焼物共販制実施、不況から立ち直りつつある。人口の増加小さい。(1950)
 昭和16年太平洋戦争突入、男の人口より女の人口が多くなる。
 自由経済となり敗戦から復興へ(1950)。
 製陶業順調に操業に入り、安定した着実な増加が進む。(1955)
 重油窯、電気窯、ガス窯と燃料革命、窯体構造も変化する。クラフトデザインが導入。(1960)
 質も高まる。九州などから集団転職者の受入進む(1965)
 戸数人口の増加鈍る。(1970)
 人口減少5年間に221人減となる。(1975)
 人口の減少50年までの減少より多くなる。342人(1980)
 戸数、人口減少最大となる。この年まで5年間に戸数78戸、人口553人減(1985)
 戸数、人口減少弱まる。(1990)
 戸数増加に転ずる。人口減少は続くが減少は小さくなる。(1995)
 戸数、人口共に増加に転ずる。(2007)


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        七反田は語る(下石陶磁器工業協同組合敷地物語)  
 
      自然豊かな水田地帯(東窯屋敷町並 西妻木川、南妻木川 北中馬中街道)  
  • 明治40年(1907)まで七反田は見渡す限り、水田であった。農作業する人々を見ながら中 馬の馬、熱田、伊勢、多治見へ 旅人が往来した。
  • 中仙道大井宿  下街道多治見を結ぶ道。馬の背に荷をつけて運ぶ。陶磁器など運び出し、 塩などが入ってきた。
  • 明治22年(1889)石拾を通る馬車道が開通して馬車による輸送多くなる。
  • 明治24年(1896)10月28日、濃尾地震、清水の校舎一棟倒潰、三棟半潰校舎確保苦労する。  急増する児童教室不足
  • 明治40年(1907)年9月 児童増加、校地狭小解決へ七反田の水田造成
  •  校舎一棟新築 一棟清水より移築、開校する(北舎)
  • 大正4年(1915)西舎一棟新築 11月8日竣工
  • 大正9年(1920)南舎一棟新築 4月3日竣工
  • 大正11年(1921)1月西舎の西側を駄知鉄道が敷設開通
  • 昭和2年(1927)3月31日、東舎増築完成. 
  • 昭和7年(1932)9月13日、下石川堤防決壊 校舎床上浸水する。
  • 昭和4年(1928)ごろから、福戸ケ根に運動場を造成していた。
  • 昭和9年(1934)2月から福戸ケ根に校舎新築移築(5棟)8月25日竣工
  • 昭和3年~5年(1928~1930)、下石陶磁器工業協同組合を旧農協下石支店横に事務 所を設立
  • 昭和5年(1930)4月、匣鉢工場を事務所裏下石川に面した北に設立
  • 昭和6年(1931)9月9日、法により設立された妻木陶磁器工業組合に加入して下石支部となる
  • 昭和7年(1932)1月、匣鉢工場に隣接し製土工場設立
  • 昭和14年(1939)3月22日、下石陶磁器工業組合設立(妻木工組より独立)
  • 下石陶磁器試験場六反田下石川沿いに建設、活動開始
  • 昭和15年(1940)4月、組合事務所 共同集荷倉庫新築 移転
  • 皇紀2600年祭典具、土器及び酒器を製作。橿原神宮(須恵器)、宮崎神宮(弥生土器)納入
  • 太平洋戦争中、共同集荷倉庫軍需品倉庫となる戦後、釉薬工場、匣鉢工場、電器具高圧試験場を経て現在に至る
  • 農協裏の製土工場廃止
  • 昭和51年(1976)下石郷土陶磁器陳列館 (窯元館)新築昭和61年(1986)現在の事務所新築着工完成

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1.多治見恵那線 明治22年開通
2.中馬中街道 中仙道大井と下街道多治見を結ぶ道
3.柿野妻木と中馬中街道を結ぶ道
4.中馬中街道 土岐口を結ぶ道
5.肥田多治見線三本松水道タンク
6.セラパーク現代陶磁器美術館前停留所
7.妻木川
8.下石川
9.土岐口への道
10.神明神社道
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11.下石小学校校地
12.駄知線(大正13年9月完成、駄知遊歩道)  
13.下反田の小学校校地       
14.下石農協  陶磁器工業組合   
15.下石橋(昭和4年架橋)     
16.多治見街道 多治見恵那線、大正9年県道になる   
17.栄橋(昭和4年架橋)

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七反田学校校地に(下石尋常小学校校地 子どもを育てる地に)

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