下石町、やきものの歴史

下石町、やきものの歴史の

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このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

冊子「火童子窯」(登り窯写真あり)

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冊子「火童子(ひわらし)窯」                        

「下石町の産業観光の拠点として下石村に約400年前(下石陶祖、加藤庄三郎氏家が桜ヶ根に連続式登り窯を築炉したのが元和7年西暦1621年)より栄えた登り窯を築炉したい」と、平成15年度から計画、「下石町づくり委員会」を発足、平成16年9月に完成、11月火入れ式という事で、登り窯(火童子窯)の築炉を記念し、平成17年3月に下石工組編集、下石町町づくり委員会(委員長 林宏美氏)発行で「火童子窯」という冊子を発行しました。
平成16年当時下石工組理事長 土本晋平氏の序文より抜粋 


第一章~第四章からなる資料を抜粋してご紹介いたします。

※この冊子は、小原克郎氏、安藤英夫氏、寺井せい明氏、加藤隆一氏、古川秋夫氏、大橋康男氏、 土本晋平氏、および青年会議所より資料のご提供を受け作成いたしました。

参考資料 Wa 和 下石窯800年の歩み  ロクロの里  美濃焼の焼物 登り窯ばんざい

第一章  写真で見る足跡

土本晋平氏の撮影された写真データより冊子に載せきれなかった分もアップしました。
登り窯築炉の様子を順にご覧ください

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もう少し拡大はコチラ
昔の登り窯写真

第二章  登り窯の歴史と変遷について 
セラテクノ場長 大橋康男さんに執筆していただきました。

美濃焼の歴史は1300年前にさかのぼるが、下石のやきものの歴史は鎌倉時代に始まったとされ、800年もの歴史を有するやきものの産地である。

○美濃焼きとは・・・・・・・
 そもそも美濃焼とはどこまで指すのか、大変分かりにくいものであるが、土岐市を中心に多治見市、瑞浪市、笠原町などで生産される「やきもの」を総称して美濃焼という。美濃地方にやきものが作られるようになったのは、良質な粘土が豊富に流出したのが要因である。

 古代には、縄文土器・弥生土器・古墳時代には土師器(はじき)があり、いずれも野焼き程度のやきものであった。本格的な丈夫なやきものが作られたのは、5世紀に須恵器が朝鮮半島から伝わったことである。須恵器を焼いた窯は、山の斜面に穴を掘って作ったことから「窖窯」(あながま)と云われる。
 平安時代、10世紀になると、愛知県・猿投窯から「うわぐすり」を使った釉陶器が伝わり、このやきものを「白瓷」(しらし)といい日本の陶器の出発点である。

 室町時代、15世紀に入ると、瀬戸のやきものが美濃に伝わり、瀬戸で焼かれていた灰釉、鉄釉をかけた新しいやきものが作り始められた。
特に、この時代には中国・宋時代の青磁・白磁・天目などが沢山入ってきて、大変大きな影響を受けている更に、焼成技術も向上し「匣鉢」(エンゴロ)が使われるようになり、窯の有効利用から量産が可能になった。
15世紀末期頃、地下式の「窖窯」から地上式の「大窯」が築かれ、灰釉・鉄釉の新しいタイプの碗・皿・徳利・すり鉢などのやきものが焼かれるようになった。

 16世紀中期には灰釉が改良され、線彫りや印花の文様がつけられ「胆礬」(タンパン)で加飾された「黄瀬戸」が出現する。灰釉に長石を加えた「灰志野」ができ、更に、長石のみで作られたうわぐすりの「志野」が誕生するのである。志野釉は流れにくい性質があり、日本で始めて筆により文様を描くことが可能になり、鉄(サビ)を使って様々な文様が描かれた器が焼かれるようになった。

これらのやきものは、室町時代末期の「わび・さび」の茶の湯の広がりから茶道具としても盛んに作られた。いわゆる安土桃山時代から江戸初期にかけ、豪華絢爛な安土桃山文化が開花し、優れた美術工芸品が数多く創出される時代に即応するものであった。

 その特徴として、これらを「美濃陶山陶」といわれ、茶の湯の流行と共に茶匠、千利休によって確立された「好み」で、様々な「技法」で生み出された志野・黄瀬戸・瀬戸黒など優れたやきものが焼かれるようになったこの頃になると、こうしたやきものの重要は全国的に広がりを見せ、量産の出来る窯が必要になり、当時最新式の「連房式登り窯」が九州・唐津から導入された。
この窯で古田織部によって創出された、かつてない斬新なデザインの「織部」が登場するのである。その特徴は今までにない歪のある形状、非対称的な形状であり、文様も幾何学文、抽象文など、多岐にわたって描かれている。

 しかし、古田織部の没後、茶の好みも変わり「御深井焼」(おふけやき)」という、やきものが好まれるようになり、茶の湯の世界から織部は遠退いて行くのである。
 江戸中期になると、新たな需要販路を「江戸」に求め日常食器、鉄釉・灰釉の碗、皿、徳利などが大量に作られるようになる。

 このように陶器質のやきものが長い時代作られていたが、江戸時代初期に磁器質のやきものが九州、有田で「李参平」によって、磁器の原料・陶石が発見され、日本で初めて白い磁器が登場するのである。すでに、やきものの生産地であった瀬戸に19世紀、この磁器の製法が伝わり、盛んに作られるようになった。このため、東日本では「やきもの」を瀬戸の物「セトモノ」と呼び、窯元、商人をちゃわん屋と今でも呼んでいる由縁である。

 美濃にも磁器の製法が伝わるや、これまでの陶器質のやきものから白くて硬い「磁器」が生産の主流になった。これに伴い、今までにない新しい青色の文様「染付け」が登場する。染付けに使用する顔料を呉須といい、山から産出する石に付着した原料、紺青(こんじょう)マンガン・コバルトを含んでおり、取り出し、細かく粉砕、精製し文様の絵具として使用する。後にコバルトが明治時代になると輸入されるようになりこれが絵付顔料の主流になる。

 明治時代に入ると、更なる需要にこたえて生産体制を整え、型紙を使用する新しい技法「摺り絵」、エッチングによる「銅版印刷」など新しく開発されていった。

 この時代には、大きな「流通」の変化があった。それは鉄道網が整備され、瀬戸経由で出荷されていたやきものが、鉄道によって全国に販路を拡大し、「美濃焼」としての一大産地となった。


下石の登り窯の歴史は、古文書によると加藤庄三郎家(陶祖)が、元和元七年に「桜ヶ根」の北に面した土地で「連房式登り窯」を築き、窯業を始めたとされる。

 ○登り窯とは・・・・・・・・。
 山などの傾斜面の勾配を利用して火度を上げる構造の窯。東洋に多く見られ、中国では「竜窯」、朝鮮半島では「蛇窯」と呼ばれる。朝鮮半島でも高麗時代高麗青磁、粉青沙器など焼かれていた。文禄・慶長の没後、これらの朝鮮半島の技術が導入され、九州一帯で築窯が広まっていった。

 この後、唐津より久尻窯・景延が登り窯の技術を学んで築いたとされるのが泉町久尻に保存されている「元屋敷窯跡」はその代表的なものである。

 下石の登り窯・「桜ヶ根」で焼かれた製品は、灰釉・鉄釉・御深井の碗・皿・鉢・仏具・水滴・水差しなど焼成し、この一帯は江戸中期以後、美濃窯の中心として栄えた。更に、窯の改良が重ねられ、炎の調整、温度管理、焼成品の安定ど機能的にも進歩すると共に、窯の規模が大きくなった。

 江戸後期になると、瀬戸から磁器質の製法が伝わり、炻器に近い時期が焼かれるようになる。これは当時、画期的な製品の誕生であったといえる。これには原料が大きく関わっていることが伺える。浦山に良質の蛙目粘土は隣の土岐口・粘土坂珪石、粘土を調合して作られている。その後、蛙目粘土は隣の土岐口・粘土坂(ねっとざか)に安価に産出するようになり、こちらに原料を求めてゆく。

 明治時代に入ると、焼成法が変化し、酸化焔焼成から還元焔焼成になり、より白く丈夫な「やきもの」が生産できるようになる。
更に、登り窯は改良され、大量生産にあうよう窯の規模も大きくなり、質的に薄いものを作るため、蛙目粘土の強粉(耐火度の高い粘土)を調合し、薄い製品の開発も行っている。更に、特筆すべき点は碍子の生産である。なぜ碍子か、これも長年培ってきたロクロの技術力である。
下石は「ロクロの里」として、徳利を磁器質粘土で成形する技術がある。この技術力で生まれる徳利は、登り窯で焼かれ、他の産地でその姿を消してゆくのに昭和40年まで生産が止むことはなかった。全国のやきもの産地でも例を見ないものであろう。
 

窖  窯
鎌倉・室町以後、須恵器・自瓷窯など、山の斜を利用して作られた窯を、「窖窯」という。時代は長く5世紀から15世紀まで約1000年、久尻に連房式登り窯が出現するまで続く。 
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登り窯        
九州・唐津より、「唐津式連房式窯」が伝わり、窖窯に変わって作られた。久尻に保存されている「元屋敷窯跡」はその代表的なもの、最盛期には国内最大、織部を主とする幾多の名品を焼く。登り窯は大正初期から増加、高温で長時間焼くため高品質の製品が出来た。昭和27年に、下石に68基あり、石炭窯、電気窯、ガス窯に変わり、昭和40年、8基あったが姿を消す。
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石炭窯
明治後半、石炭窯が造られ、大正時代に入り増加、普及の要因には、スピード化、高能率、焼成時間の短縮。昭和47年頃、減少に展示燃料革命から次世代の重油窯が普及。
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重油窯
昭和47年にピークを迎えるが、下石は45基が稼動、重油窯の特徴は、高カロリー、高温焼成(SK13、1380℃)が可能。酸化、還元焼成が可能、高品質化。LPGの普及から、ガス窯に移行。

トンネル窯
昭和10年にトンネル窯が出現、昭和38年には経済成長と設備近代化で普及、燃料は重油をしよう、連続焼成、余熱、除冷が出来、熱効率が良くなったが量産形から、小回りの効くガス窯に生産体制が移行。
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ガス窯
昭和37年頃普及し始め、下石で昭和62年をピークに約130基が稼動、現在に至る。下石は、酸化焼成、還元焼成と両方の仕様がある。電気窯の普及が大きく関わっている。深夜電力わ普及させた経緯がある。これがガス窯に移行。電気窯は昭和47年頃をピークに現在、約半数位が稼動
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次、read moreで、昔の窯道具の写真がご覧いただけます。

第三章 残したい登り窯ことば
"登り窯ばんざい"の著者 小原克郎先生にご指導をいただきました。昔、登り窯を焼く事は窯屋にとっては、財産を賭けた大仕事でした。科学の進んでいない時代、還元焔焼成で磁器を焼くため、非常に苦労をされました。還元焔とか酸化焔とかが現在のように分子記号で表現できない時どんな言葉でそれを伝えたでしょう。3つに分類し編集してあります。

窯の道具ことば
エンゴロ サヤ、匣鉢と同意語で製品を入れる容器
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ツク 焼成室で製品を棚板に載せ積み上げるための支柱
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棚板(エブタ)  1300℃以上の高温に耐える陶製の板。木節粘土が含まれている。
エブタともいう。焼成の際、この上に製品を置く。
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棚  登り窯の棚を幾通りも作る時、窯の奥から、奥棚、中棚、前棚という。
ヨリ土  粘りがあり、耐火度があり、焼成室で窯詰めの作業にツク、棚板のがたつきを
補正するクッションの働きをさせる粘土で、ひも状にして使う。     
オカモチ  色見(テストピース)を取り出す為の用具。
クレ   雑粘土で粘りがあり、耐火度の高いものを枕状にし、築炉用レンガとして使う。
トチ  製品の下敷きにして、歪みを緩和させるもの。
 製品がエンゴロや棚板に直接接触しないようにする円盤状のもの。

ヨーラク    灰の侵入を防ぐ板状のもの。棚の上段に使用する。
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メンパ    窯の天井が円形になっているため、そこに使う小さめのエンゴロ。
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イナイ棒(天ビン棒)  荷物を前後の端に付け、肩で天秤状で運ぶ棒をいう。
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イナイカキ゜  天秤棒で物をつかむカギ手。
ミチイタ    棚を吊る時、高所に足場を作る板。


トコボセ   窯の焚口のフタを持ち上げる道具。
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色見ボセ    焼成中の窯の中から、色見(テストピース)を取り出す時に使う。鉄製の棒状の輪。
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ヨリトリ    付着したより土を棚板から取り外す時に使う道具です。
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穴アケ  焚き口、棚板等に穴を開ける、ツルハシ状の小さなもの。
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手ズル  ツルハシを小さくして片手で使えるようにしたもの。
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ガニマタ         胴木間を焚く時、割木を奥の方に送るための道具。
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サマカキ     前狭間に留まったオキ等を、動かす道具。
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ツボヨキ    割木を割るための小さめのヨキ。
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サマ穴
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窯定規
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窯焼きのことば
割木(ワルキ)   窯のことを方言でいう。
割木解き      ワルキトキ、束ねてある割木を解いて使い易くする事。
ゴントージ     木材を割木にする時、節等で割れない根っ子。ゴンタとも言う。
手下(テシ)    手下のこと。くべ口の近くの事。
手下(テシ)を切る 焼成中、窯の入口近くが早く焼けるので、そこに蒔をくべないこと
火前(ヒマエ)   窯の中の一番炎の強い場所。前狭間(マエザワ)付近。
クベル       方言で割木を燃やすこと。タクとも言う。
セリ        窯の温度が約850℃~950℃になり、還元焔焼成にうつる事。磁器を焼く登り窯は還元焔焼成が行われる
オキ        蒔の揮発成分が無くなり、炭素(炭)分が残り、それが燃焼している時の事。
初窯        新しく窯を作って焼くこと。昔からの慣わしで茶碗に左馬の文字、絵を描いて焼くと商売繁盛、又、縁起がいいと言われている。  
窯入れじまい    窯全体に完成した製品が入った時の事。
窯入れ       うわぐすりを施し、完成した製品を窯に入れること
ゆげぬき      窯に火を入れ窯及び、製品の水分を十分に乾燥させるため、火力をゆっくり上昇させること
酔い        焼成の雰囲気の不具合の言葉。 酸化焔がかかるため赤褐色に焼ける。酒に酔うと赤くなることから使われる。  
窯が沸く      焼成中、急激な温度上昇のため、火前に損傷を起こすこと。窯がシャレルと同意語
ナマ焼け      製品が充分焼けていない時に使う。ゴジゴジとも言う。
窯が引く      窯全体が煙突の役目をしている。火炎の上昇が良い窯を言う。
窯出し       焼成された作品を窯から取り出すこと。反対語は窯詰め又は窯入れ。
スケて焼く     セリに入った時、還元焔をやや薄くして焼成する事。
中性焔に近い焼きかた。
窯を練る      窯を焼く時、火前から温度が上がるため、くべる間隔を遅くして、窯の温度を平均化する事。
焼き上げ祝い    窯が全部焼けたとき、「焼き手さん」をねぎらう時に使う言葉。
棒が立つ      還元焔焼成の中の窯内部の一ケ所に空気か入り酸化雰囲気となった部分に黒い影が棒状に表れること。
焼き手       窯を焼く事を生業とする人
窯がしける     地面に直接築炉するため、地下水等で窯が水分を含む事、焼成には良くない。

窯の構造に関することば
色見穴    窯の焼成中に窯の中の焔の状態を観察、テストピースを取り出す穴。
火吹き穴   窯の中の温度、雰囲気の状態を炎で観察する穴。
胴木間    登り窯の最下段に作られ、一の間に予熱を与えるため、最初に火を入れる焚口をいう。
一ノ間    連房式登り窯の一番下にある焼成室で、焼成室の名称を下方から上方に向かって 一ノ間、ニノ間と呼ぶ。
二ノ間    一の間の焼成が終わると、二の間へと焼成していく。
コクド    最上部の排煙口
狭間     間と間を継ぐ火炎道路で、煙突状の構造。
戸じめ    窯に製品を詰め終わったら、入口をレンガ(クレ)で塞ぐ事。
障子     一ノ間、二ノ間など間と間を隔てる壁。
窯鞘(カマザヤ) 窯の屋根をいう
根(ネ)     窯の一番下の位置をいう
頭(カシラ)   窯の一番上部をいう。
スリスナ     窯の内壁が高温と灰のため損傷を受ける。蛙目粘土の珪石分の多い砂をぬる事。 

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