下石町、やきものの歴史

下石町、やきものの歴史の

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このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

下石の陶祖

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下石の陶祖について  
            以下「陶祖祭」によせて桃井先生に寄稿していただいたものです
 
陶祖を顕彰しようとする動きは明治時代から始まりました。
「美濃陶祖加藤與三兵衛尉景光并下石陶祖加藤庄三郎氏家碑」

正二位勲一等子爵  榎本武揚 篆額 

明治35年1月、仙台、岡干 仭 撰文され大正9年9月に字心庵 藤井弘恭書の美濃下石陶祖碑文が残されています。現在建立されている陶祖碑は、土岐郡長を務めた水谷弓夫が撰文并書を石に刻しました。
この碑は大正14年4月清水八剣神社に建立され、昭和27年4月15日現在地に再建しました。

永保の頃(1081~)加賀国の林総左衛門吉兼という人が下石に移住したのが林氏の始めと言われ、平安時代からの旧家です。下石に林が移住後、鎌時代に下石西山窯ヶ洞に山茶花窯(窖窯)が稼動しています。これが下石最初の窯です。室町時代に半地下式に窖窯の古瀬戸の窯が稼動して灰釉、鉄釉を施釉した陶業地となりました。古瀬戸窯は、多治見市境に近く妻木、下石、土岐口、五斗蒔の五窯と、駄知有古の計六窯が、確認されていますが、下石林氏の関連はわかりません。
地上窯の大窯期に入り、窯業地は西山から桜ヶ根地に移動しました。大窯を構築する条件に恵まれていたからだと思います。太平窯の開祖景豊の十男清大夫長はまもなく笠原に移住してしまったからです。

 元和(1615~23)初期に林清兵衛の娘と結婚した定林寺の加藤庄三郎家は、加藤家世襲の窯株7株中6株を持参して下石町に移住して桜ヶ根の西方にて開窯して下石陶業近世の始祖といわれるようになりました。
 桃山陶の流れを継承するすぐれたやきものを生産しています。桜ヶ根の最下層から定林寺窯を類似した陶器が出土して定林寺窯と深いかかわりを示しています。窯の上に次々に窯を構築して創業してきましたので陶祖の窯の確認はできません。すぐれた技をもち、素晴らしいやきものを生み出したことにより、下石窯業の発展に大きく寄与したことから陶祖として尊崇してきました。林氏も陶業の支えに尽力したと思われます。
 庄三郎氏家持参の窯株は寛政8年(1796)の美濃窯差し止め願書提出後、下石窯業の大きな力となり、発展になりました。 美濃焼の歴史によると、天宝元年(1830)三河の八草村生まれの加藤利兵衛なるものが磁器創製を指導しました。利兵衛は瀬戸で陶技を習得したのち下石に来て庄三郎氏家四世佐兵治の弟兵助より三代目の加藤利兵衛方に入婿し、利兵衛を襲名し、その四代目となったもので、窯は瀬戸の丸窯(磁器登窯)を用いたというが、詳らかではないです。当時の磁器は二合肩張徳利、二合鳶口徳利、切立花筒、茶碗、土瓶等であります。新製と呼ばれるやきものが隆盛したのは、利兵衛が磁器導入によるものとして磁祖として尊崇してきました。江戸末の磁器が桜ヶ根から出土しています。
「丸窯」と呼ぶ窯が桜ヶ根の大正の絵図に描かれていますし、明治の初めに急速に発展した下石窯業は、利兵衛の功が大なるものがあります。陶器、磁器の技を持って移住した庄三郎利兵衛と窯業を志した先人たちの尽力により、今日あることに感謝し、益々発展を祈念して、毎年4月に陶祖祭を続けています。
陶祖碑文は下記にあげてあります

もっと拡大してご覧になる場合はコチラ
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冊子「火童子窯」(登り窯写真あり)

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冊子「火童子(ひわらし)窯」                        

「下石町の産業観光の拠点として下石村に約400年前(下石陶祖、加藤庄三郎氏家が桜ヶ根に連続式登り窯を築炉したのが元和7年西暦1621年)より栄えた登り窯を築炉したい」と、平成15年度から計画、「下石町づくり委員会」を発足、平成16年9月に完成、11月火入れ式という事で、登り窯(火童子窯)の築炉を記念し、平成17年3月に下石工組編集、下石町町づくり委員会(委員長 林宏美氏)発行で「火童子窯」という冊子を発行しました。
平成16年当時下石工組理事長 土本晋平氏の序文より抜粋 


第一章~第四章からなる資料を抜粋してご紹介いたします。

※この冊子は、小原克郎氏、安藤英夫氏、寺井せい明氏、加藤隆一氏、古川秋夫氏、大橋康男氏、 土本晋平氏、および青年会議所より資料のご提供を受け作成いたしました。

参考資料 Wa 和 下石窯800年の歩み  ロクロの里  美濃焼の焼物 登り窯ばんざい

第一章  写真で見る足跡

土本晋平氏の撮影された写真データより冊子に載せきれなかった分もアップしました。
登り窯築炉の様子を順にご覧ください

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もう少し拡大はコチラ
昔の登り窯写真

第二章  登り窯の歴史と変遷について 
セラテクノ場長 大橋康男さんに執筆していただきました。

美濃焼の歴史は1300年前にさかのぼるが、下石のやきものの歴史は鎌倉時代に始まったとされ、800年もの歴史を有するやきものの産地である。

○美濃焼きとは・・・・・・・
 そもそも美濃焼とはどこまで指すのか、大変分かりにくいものであるが、土岐市を中心に多治見市、瑞浪市、笠原町などで生産される「やきもの」を総称して美濃焼という。美濃地方にやきものが作られるようになったのは、良質な粘土が豊富に流出したのが要因である。

 古代には、縄文土器・弥生土器・古墳時代には土師器(はじき)があり、いずれも野焼き程度のやきものであった。本格的な丈夫なやきものが作られたのは、5世紀に須恵器が朝鮮半島から伝わったことである。須恵器を焼いた窯は、山の斜面に穴を掘って作ったことから「窖窯」(あながま)と云われる。
 平安時代、10世紀になると、愛知県・猿投窯から「うわぐすり」を使った釉陶器が伝わり、このやきものを「白瓷」(しらし)といい日本の陶器の出発点である。

 室町時代、15世紀に入ると、瀬戸のやきものが美濃に伝わり、瀬戸で焼かれていた灰釉、鉄釉をかけた新しいやきものが作り始められた。
特に、この時代には中国・宋時代の青磁・白磁・天目などが沢山入ってきて、大変大きな影響を受けている更に、焼成技術も向上し「匣鉢」(エンゴロ)が使われるようになり、窯の有効利用から量産が可能になった。
15世紀末期頃、地下式の「窖窯」から地上式の「大窯」が築かれ、灰釉・鉄釉の新しいタイプの碗・皿・徳利・すり鉢などのやきものが焼かれるようになった。

 16世紀中期には灰釉が改良され、線彫りや印花の文様がつけられ「胆礬」(タンパン)で加飾された「黄瀬戸」が出現する。灰釉に長石を加えた「灰志野」ができ、更に、長石のみで作られたうわぐすりの「志野」が誕生するのである。志野釉は流れにくい性質があり、日本で始めて筆により文様を描くことが可能になり、鉄(サビ)を使って様々な文様が描かれた器が焼かれるようになった。

これらのやきものは、室町時代末期の「わび・さび」の茶の湯の広がりから茶道具としても盛んに作られた。いわゆる安土桃山時代から江戸初期にかけ、豪華絢爛な安土桃山文化が開花し、優れた美術工芸品が数多く創出される時代に即応するものであった。

 その特徴として、これらを「美濃陶山陶」といわれ、茶の湯の流行と共に茶匠、千利休によって確立された「好み」で、様々な「技法」で生み出された志野・黄瀬戸・瀬戸黒など優れたやきものが焼かれるようになったこの頃になると、こうしたやきものの重要は全国的に広がりを見せ、量産の出来る窯が必要になり、当時最新式の「連房式登り窯」が九州・唐津から導入された。
この窯で古田織部によって創出された、かつてない斬新なデザインの「織部」が登場するのである。その特徴は今までにない歪のある形状、非対称的な形状であり、文様も幾何学文、抽象文など、多岐にわたって描かれている。

 しかし、古田織部の没後、茶の好みも変わり「御深井焼」(おふけやき)」という、やきものが好まれるようになり、茶の湯の世界から織部は遠退いて行くのである。
 江戸中期になると、新たな需要販路を「江戸」に求め日常食器、鉄釉・灰釉の碗、皿、徳利などが大量に作られるようになる。

 このように陶器質のやきものが長い時代作られていたが、江戸時代初期に磁器質のやきものが九州、有田で「李参平」によって、磁器の原料・陶石が発見され、日本で初めて白い磁器が登場するのである。すでに、やきものの生産地であった瀬戸に19世紀、この磁器の製法が伝わり、盛んに作られるようになった。このため、東日本では「やきもの」を瀬戸の物「セトモノ」と呼び、窯元、商人をちゃわん屋と今でも呼んでいる由縁である。

 美濃にも磁器の製法が伝わるや、これまでの陶器質のやきものから白くて硬い「磁器」が生産の主流になった。これに伴い、今までにない新しい青色の文様「染付け」が登場する。染付けに使用する顔料を呉須といい、山から産出する石に付着した原料、紺青(こんじょう)マンガン・コバルトを含んでおり、取り出し、細かく粉砕、精製し文様の絵具として使用する。後にコバルトが明治時代になると輸入されるようになりこれが絵付顔料の主流になる。

 明治時代に入ると、更なる需要にこたえて生産体制を整え、型紙を使用する新しい技法「摺り絵」、エッチングによる「銅版印刷」など新しく開発されていった。

 この時代には、大きな「流通」の変化があった。それは鉄道網が整備され、瀬戸経由で出荷されていたやきものが、鉄道によって全国に販路を拡大し、「美濃焼」としての一大産地となった。


下石の登り窯の歴史は、古文書によると加藤庄三郎家(陶祖)が、元和元七年に「桜ヶ根」の北に面した土地で「連房式登り窯」を築き、窯業を始めたとされる。

 ○登り窯とは・・・・・・・・。
 山などの傾斜面の勾配を利用して火度を上げる構造の窯。東洋に多く見られ、中国では「竜窯」、朝鮮半島では「蛇窯」と呼ばれる。朝鮮半島でも高麗時代高麗青磁、粉青沙器など焼かれていた。文禄・慶長の没後、これらの朝鮮半島の技術が導入され、九州一帯で築窯が広まっていった。

 この後、唐津より久尻窯・景延が登り窯の技術を学んで築いたとされるのが泉町久尻に保存されている「元屋敷窯跡」はその代表的なものである。

 下石の登り窯・「桜ヶ根」で焼かれた製品は、灰釉・鉄釉・御深井の碗・皿・鉢・仏具・水滴・水差しなど焼成し、この一帯は江戸中期以後、美濃窯の中心として栄えた。更に、窯の改良が重ねられ、炎の調整、温度管理、焼成品の安定ど機能的にも進歩すると共に、窯の規模が大きくなった。

 江戸後期になると、瀬戸から磁器質の製法が伝わり、炻器に近い時期が焼かれるようになる。これは当時、画期的な製品の誕生であったといえる。これには原料が大きく関わっていることが伺える。浦山に良質の蛙目粘土は隣の土岐口・粘土坂珪石、粘土を調合して作られている。その後、蛙目粘土は隣の土岐口・粘土坂(ねっとざか)に安価に産出するようになり、こちらに原料を求めてゆく。

 明治時代に入ると、焼成法が変化し、酸化焔焼成から還元焔焼成になり、より白く丈夫な「やきもの」が生産できるようになる。
更に、登り窯は改良され、大量生産にあうよう窯の規模も大きくなり、質的に薄いものを作るため、蛙目粘土の強粉(耐火度の高い粘土)を調合し、薄い製品の開発も行っている。更に、特筆すべき点は碍子の生産である。なぜ碍子か、これも長年培ってきたロクロの技術力である。
下石は「ロクロの里」として、徳利を磁器質粘土で成形する技術がある。この技術力で生まれる徳利は、登り窯で焼かれ、他の産地でその姿を消してゆくのに昭和40年まで生産が止むことはなかった。全国のやきもの産地でも例を見ないものであろう。
 

窖  窯
鎌倉・室町以後、須恵器・自瓷窯など、山の斜を利用して作られた窯を、「窖窯」という。時代は長く5世紀から15世紀まで約1000年、久尻に連房式登り窯が出現するまで続く。 
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登り窯        
九州・唐津より、「唐津式連房式窯」が伝わり、窖窯に変わって作られた。久尻に保存されている「元屋敷窯跡」はその代表的なもの、最盛期には国内最大、織部を主とする幾多の名品を焼く。登り窯は大正初期から増加、高温で長時間焼くため高品質の製品が出来た。昭和27年に、下石に68基あり、石炭窯、電気窯、ガス窯に変わり、昭和40年、8基あったが姿を消す。
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石炭窯
明治後半、石炭窯が造られ、大正時代に入り増加、普及の要因には、スピード化、高能率、焼成時間の短縮。昭和47年頃、減少に展示燃料革命から次世代の重油窯が普及。
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重油窯
昭和47年にピークを迎えるが、下石は45基が稼動、重油窯の特徴は、高カロリー、高温焼成(SK13、1380℃)が可能。酸化、還元焼成が可能、高品質化。LPGの普及から、ガス窯に移行。

トンネル窯
昭和10年にトンネル窯が出現、昭和38年には経済成長と設備近代化で普及、燃料は重油をしよう、連続焼成、余熱、除冷が出来、熱効率が良くなったが量産形から、小回りの効くガス窯に生産体制が移行。
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ガス窯
昭和37年頃普及し始め、下石で昭和62年をピークに約130基が稼動、現在に至る。下石は、酸化焼成、還元焼成と両方の仕様がある。電気窯の普及が大きく関わっている。深夜電力わ普及させた経緯がある。これがガス窯に移行。電気窯は昭和47年頃をピークに現在、約半数位が稼動
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次、read moreで、昔の窯道具の写真がご覧いただけます。

濃尾大震災 下石の製陶業

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濃尾大震災

明治24年(1891) 午前8時36分 発生
下石も甚大な被害を受けた。当時下石の戸数500戸ほどある。
被害状況
1 全壊住居  11戸  半壊住居 235戸 二分以上損害受けた住居 427戸
 損害を受けた戸数4327戸(全戸数の85%)
損害総額 51.405円
 学校全壊 1棟  半壊 2棟  
 寺半壊  1棟

2. 道路損害 1200円 橋梁損害 450円  溜池損害7ヶ所 120円
  堤防  44町2間(4800m) 250円 損害合計 2002円
  使用を25年3月までに復旧完了した。
  山前1ヶ所  2反5畝(2489.9㎡)

3.耕地傾斜 2町2反2歩
 耕地陥落 4反9畝2歩
   復旧遅れ元に戻すまでには時間がかかった

4. 製陶業の損害高  8.128円
  損害窯数 26(総窯数28) ( 窯は全窯株の98%)
   明治25年度までに復旧させた

道路のようす
明治20年代は、主要道路が山地から低地に道が移動した。
駄知から下石・多治見の道は山神、清水、尾張屋辻から工業組合の北を通り、阿庄の中央を阿庄口に進み、石拾峠をこえて多治見下沢に通じる道につけかわり、馬車が通れる道となった。
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景気がよくなるのは明治35年中央線中津川まで開通以後

明治23年 不景気  陶磁器価格下落 米価等穀物価格高騰
明治25年 田畑不作
明治26年 大飢饉
明治27年 日清戦争起こる 雨乞い 農産物不作 米価年々高騰
明治28年 日照り 田植おくれる
明治29年 台風、大水害
明治30年 雨乞い
明治31年 妻木川大洪水

登り窯の火が止まるか 下石の製陶業
未曾有の燃料不足解決へ
◎昭和12年  
石炭の入手一段と困難、応召により零細企業の圧迫強まる
7月7日 日華事変起こる
9月臨時資金調整法 輸出入品等臨時措置法、軍需工業動員適用法の戦時統制三法公布
同年7月29日自動車、トラック召集
◎昭和13年 
国家総動員法公布 町火管制規制実施
生産量割当数量2~3割減産断行 転業者26名、休業44名 職工失業者428名
商工省石炭配給統制規制公布
切符制実施 日陶連で石炭配給統制
◎昭和14年
米穀配給統制法公布 国民徴用令公布
価格等統制令公布 製陶労働組合解散
生産量多くなる
製陶所 軍需産業転出者多く、労働力不足となる
石炭の配給制度の実施 薪、燃料不足 陶磁器の価格統制一段と強化


戦時体制で労働力不足となり、鉄道輸送の制約、松材の生産地の問題などの社会のようすから、下石は未曾有の燃料不足となる
下石陶磁器工業組合となったばかりで、燃料確保は困難であった。
燃料供給地を知っている職員に、燃料探しを依頼した。長野県諏訪郡富士見町に松材を求めに出かけて、八ツ岳山麓の満蒙開拓団の修練農場造成地で伐採した赤松を、登窯の燃料として送ってもらう約束を取り付けた。統制経済で厳しい規制の中、県木の軍需産業以外の産業に出荷するのには課題があったが、許可を受け入れたのは工組職員からの願いを受け止めて尽力された長野県人の友情の厚さであった。
登り窯の薪の長さは尺5寸であるが尺2寸でとの願いも聞き入れてくれ36000束が、昭和15年下石駅に着いた。皆が驚く快挙であった。
明治以来、下石は、多くの転入者を受け入れ、それらの人々の力を受けて、数々の話題を解決し発展してきた。これもそれであった。
土岐郡騒動、米騒動を発生させたこととも深くかかわる面もある町でもある。
  「設立以前の窯仲間」後半部分とも重複します

下石町誌 資料編 全6巻 桃井勝著 より

設立以前の窯仲間

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平成12年3月発行  下石陶磁器工業協同組合 
            昭和23年以前の組合が解散に至るまでの窯仲間の変遷
            道標 (下石工業組合50年史) の別冊「設立以前の窯仲間」として
            書かれた冊子で、著者は桃井勝氏です。他記事で重複する部分もあります。
参考文献 岐阜県「岐阜県史」 多治見市「多治見市史 窯業資料」 土岐市「土岐市史」
土岐津町誌編集委「土岐津町誌」奥村長春「米騒動に関する土岐郡笠原村の考察」岐阜史学
大脇郁夫「美濃陶器業近代化に関する考察」岐阜史学  田中静夫「土岐郡地誌」
奈良本辰也「近代陶磁器産業の成立」 平田哲也「米騒動研究の現段階」 桃井勝「郷土下石」
立花昭「内国勧業博覧会と岐阜県の窯業美濃焼を中心として(多治見市文化財保護センター研究第二号)」 田口昭二「美濃焼の焼物」

はじめに
土岐市での美濃焼の歴史は1300年余であるが、下石の歴史が800年余である。土岐北部に比べ500年余がやきものの消費地であった。下石の最初のやきもの使用は縄文前期(6000年前)である。弥生時代(紀元前300年~後300年)の中後期に、稲作文化、金属文化を持つ弥生文化が伝えられ、煮炊きする甕、物を蓄える壺、食物を盛る高杯などを使用するようになった。東南アジアの焼成法のような方法と思われるが、焼成跡は確認されていない。
古墳が福戸ヶ根ほか25基造営され、円墳の石室内から須恵器が副葬品として出土している。須恵器の製法が大陸から伝わり、大阪の陶邑で窖窯(あながま)で生産が開始されて全国に広まった。大和政権の国づくり、勢力の拡大と深いかかわりを持ち、渡来人が従軍したとも伝えられている。7世紀代に泉町隠居山ついで清安寺で須恵器が稼働しているが、土岐川南部では生産されなかった。
8世紀代になると植物灰を釉薬に使用した白瓷の生産が猿投で始まり、10世紀頃多治見に伝えられた。窯が改良され、1240度の高温焼成が可能となり、陶工集団が美濃に入ってきた。11世紀には最盛期を迎えて、泉・土岐津でも生産されるようになった。神宮・皇族・貴族の保護のもと全国に販路を広げ、美濃は大生産地となった。本町は平安時代までは消費地であったが、皇族・下級貴族の地方下りによって、都の文化が地方に伝えられ、新しく武士階級が力をつけていく過程で、下石に新しい焼き物が生産されるようになった

山茶碗の生産を始めた下石の人たち
中国との交易が盛んになり、中国陶磁の輸入が増大すると、都の貴族、僧たちや武家らは質のよい中国陶磁を好み需要が増加し、白瓷の需要が減少していった。古代の陸上交通主体から海上交通主体となり、陸上交通は、海岸の村の内陸の村の村を結ぶ手段に変化し、海上輸送が安価で大量に運搬できるのに、馬や人の背による荷駄は量に限りがありコスト高となるなどによるものである。律令政治から荘園へ、貴族から武士に政治が移行し、美濃源氏土岐氏が守護地頭となって土岐郡を支配するようになり、土岐氏の御家人となった陶工たちは窯大将を中心に平常は陶器生産、非常には武器をとって先頭に参加するという武装集団によって新しい山茶碗の生産が開始された。武家の台頭、領内の警護、信仰者の見張、防備などと経済的自立、生産者としての陶工で、窯大将のもとに土岐氏と主従関係の者たちで土岐氏が販路や輸送などに保護支援があったものと思われる。コストを下げ安価に大量生産を目指したのか、碗、皿を主体に無釉の山茶碗で、緻密な素地上で薄手に多くは轆轤成形で内面はコテ、外面は轆轤ナデ調整されている。碗の高台は三角形の付高台で、内側は外傾し、外側は直立するよう調整され、高台端には籾殻痕が残っている。糸切痕が残り皿は平底である。下石町西山窯ヶ洞に鎌倉期に築造された窖窯で現在のところこの窯ヶ洞の山茶碗窯が最古で、鎌倉期(13世紀前半) 下石窯業は創業されたと考えている。
12紀前半から15世紀の中頃まで約350年間も生産し続けた。丸碗、小碗、皿、片口碗、硯、瓶、卸碗など製造品種や形状を変化させながら多治見、土岐、瑞浪、笠原、可児、恵那と生産地域を広げている。現在300基以上の窯が確認されている。地理的な広がりとともに垂直的な広がりをみせ低地から山頂まで分布している。
窯体構造は、焚口、燃焼室、分炎柱、焼成室、煙道をもつ窖窯で全長9メートルから13メートル、最大幅2~3メートル、床面の傾斜角20~30度で、馬爪型の焼台、蓋などの窯道具を使用して製品を積み重ねて焼成する半地下式の窖窯で、規模は白瓷窯より大きくなっている。白沢から西山一帯窯ヶ洞川流域は永年の浸食によって、良質な粘土層が露頭し、山の中腹の表層の土岐砂礫層が流出して、粘土層と共に湿地帯が広がったことにより、陶器の原料の採取が簡単になったことと、在地の武士たちの支配を受け、窯大将が生産と国防両面から重要視されて、一元支配、保護を受けられて窯業振興に役立ったと思われる。また「いざ鎌倉」など軍用路が整備され、船便による輸送に対抗し、陸上輸送も便利になり、さらに美濃源氏土岐氏の力が新しい地域への窯業を創出させたと思われる。裏山、白沢、窯ヶ洞、三本松、愛宕山、山神、金毘羅山、石拾、妻木西陵及び西山、妻木城、妻木ゴルフ場、八剣山麓、萱野などに数多くの山茶碗が稼働したが、陶器原料の採掘で地形は変形し、消滅してしまった。下石支配の領主の下に窯大将が連帯して生産し続けた。

古瀬戸系陶器を生産した人たち
美濃に灰釉、鉄釉の施釉陶が伝えられたのは13世紀である。瀬戸の焼き物を区別して古瀬戸系施釉陶と呼んでいる。
武士の勢力を利用して鎌倉幕府を滅亡させ、建武の親政も失敗し、足利尊氏による室町幕府が成立し、幕府を開くのに貢献した土岐氏は、室町幕府の重鎮として国政に参画し、京都に在住し、美濃・伊勢・尾張三国の守護を兼務した。土岐氏支配の東濃の村々は、財政的に支えていた。荘園が解体し、大名領国制に移行し、財政的基盤を荘園に求めていた南朝は弱体化して、南北朝合体して、足利氏による室町幕府の政治体制が確立した。土岐氏は領国経済力を高め、強力な桔梗軍団と強い領国制を求めて、計画的に鉄釉と灰釉の施釉陶を制作する工人たちを、妻木城を要として扇形に配置した。半工半兵の武装軍団で、土岐氏のもとに窯大将が一拠点を守護し、資材を貯える生産活動に従事したのが、下石西山窯の古瀬戸系施釉陶の工人たちである。
妻木窯下、妻木西山(中期)下石西山、土岐口穴弘法(前期)久尻日向(後期)駄知有古、高山東山まであるが、山茶碗窯と重複しないよう重要拠点に敗されて配されている。陶工集団は窯大将によって統治されていた武装集団で、すぐれた陶工であると共に、自然、地理を知り尽くした武人でもあった。窯体は発掘調査されていないので全容は不明であるが、半地下式窖窯で焼成室は卵形で、床面は傾斜しており、煙道部は炭焼窯様式で、側壁の状況から炎の走りも窯内温度も灰、鉄釉の溶けるまで上昇したと思われる。焚き口、燃焼室、分炎柱についてはわからないが、焼成室下方に昇煙壁があった可能性が高い。古瀬戸系編年中期で実年代では永享から嘉吉年代の1429~1442年と文献上はとらえている。(※郷土下石資料編)焼成に匣鉢を使うようになり、トチン、ヨリ、匣鉢の蓋、匣鉢を水平に設置、粘土、焼台などの窯道具を使用して窯詰をした。
 碗類(天目茶碗 平茶碗、丸碗)、皿類(小皿、緑釉皿、卸皿)、鉢類(小鉢、折緑八、蘭鉢、擂鉢、片口鉢)、壺類(三耳壺、四耳壺、双耳壺、小壺)、瓶類(瓶子、梅瓶)、香炉(袴腰型、筒型)、花瓶(尊式型、筒型)、仏供具、盃(小碗)などである。寺社、守護大名などの需要に応えたものである。
土岐氏及び一族妻木氏の働きかけと保護のもとに瀬戸から工人を移住させたもので、瀬戸で窯業条件悪化により条件的に恵まれた東美濃に移住したと考えている。

美濃大窯で生産をした人たち
土岐氏などを通じ都の情勢や文化が伝えられ、妻木氏の支援を受けて、より効果的な焼成や新しい焼き物を創作する努力はなされていた。特に中国陶磁は大きな刺激となった。こうして努力の結果、美濃大窯に改良された。大窯は地上窯で、焚口下方と急崖となり、川に面している。空気流入により燃焼をよくし、分炎柱、小分炎柱、焚口、燃焼室、焼成室、天井を支える支柱などに新しい構造や工夫がみられた。
美濃大窯による焼成期は1490年代から1605年ごろまでで大きく五期に分けている。下石地内では三期以降で、灰釉、鉄釉、瀬戸窯、黄瀬戸、志野、織部黒などの茶陶や高級食器が生産された。
守護大名から戦国大名に、新興町衆など経済力をもった層の需要の増大と要求による変革であった。茶陶としての文化により、下克上という世相の中で新しい層の需要に対応した結果であり、美濃の陶工たちの流揚性、柔軟性、先見性、技術力、歴史的環境、自然環境を生かした成果で、領主の施策、支援、保護など陶工集団の育成に領国経済をかけた英断でもあったと思われる。
大窯が妻木領国内に広まっていった。戦略的にも経済的にも有効な施策で、下石町は桜ヶ根で大窯製品が確認されているが、同所では何度も窯を築造したり、シャモット採掘、宅地化により環境が大きく変化し、大窯は遺構として確認できなくなっている。大窯について詳細を知ることは現在は不可能であるが、釜ヶ洞を中心とした窯業地帯が裏山川上の桜ヶ根に中心を移動したことは事実で、当時の陶工は下石氏、妻木氏の御家人として、いざ戦いとなると戦陣に参加する武装集団で、武士の館が近くに存在したと思われる。領主の下で従属した陶工集団である。
土岐本宗の滅亡、斉藤氏支配から織田信長の美濃統治となり、武田氏の関係で東濃が重要視されて、戦略上から美濃の拠点に信長は陶工を配置するようになる。信長は美濃に陶工集団を配置する時に、(朱印状」を与え正統化して創業に対して保護している。
天正10年(1582)本能寺の変により織田信長は死亡し、本能寺を攻めた明智の摩下の妻木勢は、山崎の合戦坂本城で主力を失い、織田政権から豊臣政権に移動後に兼山城主森氏に隷属し不遇な時期となった。天正12年(1584)小牧長久手の戦いでは徳川方につき、内津峠に陣を張り、徳川方を勝利に導く戦功を立てた。天正10年には戦場となったが、天正11年は戦場とならなかったので陶工集団も参戦したと思われるが窯業の障害は小さく、陶工達は桃山陶の政策にすぐれた技を発揮していた。妻木氏が徳川方につき、領内安堵をはかったことが、窯業界にも大きなプラスとなった。
 慶長5年(1600)年の関ヶ原の戦いは、妻木氏など東濃の武士たちは旧領安堵の命運をかけた戦いであった。徳川秀忠の徳川本隊の西進の障害になるものを除去し、軍用路の確保に尽力した。西軍に属した武士たちの妨害、特に岩村城兵との戦闘に勝利し、その役割を果たした。陶工たち戦闘に参加し奮戦している。
関ヶ原の合戦は天下分け目の戦いであったが、窯業界にも大きな変化を与えた戦いであった。1.戦国時代が終わり平和が訪れた。2.徳川家臣を中心とした政治体制(封建制)が確立した。3.地方分権政治の確立の3つが特徴である。妻木氏は土岐本宗に伝統を生かし、京、堺などの上方文化を吸収し得た。九州大名など窯業先進地の交流、親交に努力した。陶工たちの伝統的な技、先見性、柔軟性、流揚性を持ち、陶工たちの移動が大きな力を蓄積していった。

登り窯で生産を始めた人たち

 唐津登り窯の導入、古田織部など茶人と振興大名・町衆への働きかけ、やきもの文化の質の向上、販路の開拓、経営の効率化などみごとな産業政策をすすめた。下石にも妻木氏の産業経済施策により陶工が配置されていたが、下石村へ引越者断絶という事件により衰退したが江戸時代初頭に可児郡大平村の加藤与左衛門景豊の末子治太夫景長が下石に移りて陶業を開始したというが、ほどなく元和元年(1615)兄治右衛門景重、芳右衛門景次が笠原村で陶業を創業すると、景長も笠原へ移ってしまった。妻木氏の施策であったのか、下石の風土が外来陶工の操業に拒否反応を示したのか定かでない。同地域での陶業者の増加をこのまない世情、新天地を求めて可能性をめざしての移動の結果を考えている。
幕藩体制で、定林寺、肥田、駄知、鶴里は岩村領に属した。旗本妻木氏領、岩村領は領主が異なるだけでなく、地方分権の強化と共に、陶業原料土、燃料、販路などと産業を保護育成する領主を期待したのか、妻木氏の施策があったのか、定林寺村の加藤庄三郎は、定林寺窯株を持参し、下石の加藤家に入り、窯を再興して下石の陶祖となった。下石宮裏に館をかまえ、桜ヶ根に窯を築造して陶業を開始した。桜ヶ根の最下層から定林寺窯と類似した焼き物が出土している。この下石に入った窯は登窯である。桜ヶ根では御深井(おふけ)製品のすぐれたやきものも焼成している。度々の登窯の築造、宅地の造成工事などにより窯跡が消滅している。
度々の登窯の築造、宅地の造成工事などにより窯跡が消滅している。
 氏家には三子があり、市右衛門、弥右衛門、中座衛門が陶業を継承して、下石陶業発展に本家と共に精進してきた下石町は加藤庄三郎氏家の功績を追慕し、彼を陶祖として天正14年(1586)四月宮裏の八剣神社境内に陶祖碑を建立した。陶祖の墓は裏山にある。
定林寺村の窯株6個が下石村に所属したことは、その後の下石窯業にとって大きなプラスとなった。
 下石の登窯は桜ヶ根から清水にかけての、裏山、釜屋敷、清水の地域内の斜面に築窯されていた。これは下石本郷中神の窯業で同族による組織をもっていた。
 山神では二つの古窯跡が確認されているが、これからの窯で焼き物を生産した陶工については伝承がない。妻木大平と石田窯、富士塚窯の三つの登窯は隣接した地にあり、その中心に猿投神社が建立されていて。猿投より山神に移住した戸松氏の創業とするのが妥当と思われる。山神で戸松一族は繁栄し、妻木氏の家臣旧東家の支配地として経営された地といわれる。若宮神社には旧東家の建立した久保田宇吉造の常夜灯があり、棟札もあり、下石本郷と別だと言われている。石田窯は土岐市教育委員会によって発掘調査が実施されたので詳細な報告書に期待したい。
(1)石田窯跡
 この窯跡は山神の南部の丘陵中字石田の山腹にあったがその後の砂防工事や造成土木工事によって地形は大きく変容したが古窯跡の位置や窯体は発掘調査で確認した。昭和初年には、窯跡の下方には人工を加えたと思われる500坪(1150平方メートル)ほどの平地があり、そこに二つの掘井戸らしい遺構があった。物原は地下20~30cm下より遺物が出土していた。出土遺物は、深目茶碗(天目釉丸碗)、擂鉢、皿、碗、鉢等と窯道具の底部凸出匣鉢、輪トチン、三角ビンなど、胎土は精選され灰白色を帯びていて、灰釉、天目釉、鉄釉、さび釉、白釉なとが施釉されている。遺物の器壁は厚く、擂鉢の條目は少ない。猿投神社には織部の墓塔があり、陶工の墓にふさわしいが、石田窯で焼成したとは確認されていない。
(2)富士塚窯
 旧駄知鉄道が、県道と富士塚川を鉄橋で渡った橋脚の東側で線路の下方南斜面に築窯されていた登窯である。戸松家の裏手であった。宅造、鉄道建設等により地形は変容している。完全に縦サマにならない窯で、元屋敷、定林寺東洞の登塚と類似した面をもっていた。出土遺物は「郷土下石」には、大型深目茶碗、山形深目茶碗、天目茶碗、大皿菊型小皿、ウルカ壺等、窯道具には匣鉢(底部平面浅口)輪トチン、角型匣鉢(方4寸)等と記述している。
 胎土はやや精選されて白色のものを用い、釉薬は灰釉、黄釉、御深井釉、飴釉等で、薄づくりとなり底部高台もていねいに調整されている。特に菊形の三寸皿の如きは、その口縁の花弁をなせるひだの形はたいへん巧妙の出来ばえである。飴色の釉薬を施した深目茶碗は、器形といい進歩している。匣鉢に1~2個入れて積み重ねて窯詰めして焼成したようで、地形から7~8房の登窯であったと思われる。江戸中期元禄、宝永の頃の窯と推定している。
 山神は中期には1~2基の窯が稼働していたことになる。

窯株と下石に窯業を支えた人たち
織田信長以来この地の施政者たちは窯業保護と窯業振興に務め陶業の営業を公認してきた。こうして生まれたのが窯株制度である。窯株の制度が美濃で設けられた時期は確認されていない。この制度は、室町時代の座の遺風であるが、窯業の保護奨励に努めるとともに粗製濫造を防ぎ、生産調整をするものであった。天正2年(1574)正月12日に織田信長が加藤市座衛門に与えた朱印状は開業の特許制度のようなものであった。窯業の特殊な技術や信長に対する功労により与えられた身分的、社会的な安堵状であろう。産業政策上からみると窯株の一種である。
 江戸幕府は奈良の酒屋株30株、近江八幡の蚊帳株47株、堺の烟草包丁打株29株をもうけたように各藩はこれらにならって株制度を設けた。窯株は課税の対象であった。慶長20年(1615)妻木貞徳が、久々利大平の次左衛門外2人の陶工に与えた免状のなかに
「かま年貢壱かまに付いて銀3匁つつに相定め候事」
とあり、この時に窯年貢が課された。妻木領内では慶長20年以前に窯株制度はできたといえる。
 下石村陶祖加藤家に蔵する下石陶磁業沿革なる記録によると、元和年中(1615~1623)加藤庄三郎が定林寺より下石村に移住する時に、その生家世襲の窯株7通を分ち来村し開業したとある。陶工集団の大移動が実施されたと思われる。この当時の下石村の窯役負担は大富村始め5か所の負担割合と定林寺村における加藤家個人の負担を合すると約23匁2分(銀)ほどであった。登窯は本郷中神7~8基、山神1~2基稼働していて、窯株仲間は7~8人と思われる。
大富株が下石へ移動したいきさつについては現在不明である。

妻木氏廃絶後窯株仲間の活動 
万治元年(1658)妻木氏の突然の廃絶は窯業界にも大きな影響を生じた。桃山陶からの完全な離別であり、販路、製品の面で大きな転機となった。下石村は幕領となり美濃代官所の支配下に入った。妻木氏3回忌の法要を名目に妻木領内に送りこまれた坦唱、閉唱一行のねらいについては今後の研究に期待したい。
 元禄年中(1688~1704)美濃代官は、支配地の窯株を定めて濫造を禁じ、御冥加永を徴入した。また以後みだりに窯株を造ることを禁じた。従って窯株が制度として確立したのは元禄年中とおもわれる。
 寛政5年(1793)11月下石村庄屋及び窯職より土岐郡定林寺村役人宛の文書によると定林寺村の残株を下石村で引渡を受けて、下石村で窯永は責任をもって代官所に納入することを告げている。元禄のころ下石、多治見、大畑、市之倉、笠原、久尻、高田に24通の窯株があり窯永の事務は窯株旧村で処理されていたものを、この時より下石村で処理することにし、この時より定林寺村窯株は下石村窯株となった。窯焼年寄の役職がしめすように窯職で仲間(組合)を組織して、代表を定めていたことを示している。
 寛政8年(1796)笠松代官鈴木紋三郎の時に、尾州瀬戸村、赤津村、水野村の三ヶ村の窯屋より、美濃窯屋差しとめ訴訟がでてからは、窯株に対する意義は全く変わった。規制が強化され、窯株のない者は営業ができなくなる厳しいもので、寛政8年以降は窯株、轆轤数の増加は絶対に出来なくなった。美濃窯屋が尾張三村の窯屋の訴えに従ったのは、尾張藩の強力な圧力と共に生産者の増加による販売不振による生産調整が美濃窯元も必要だと感じていたからで窯株仲間が納得した処置である、美濃代官所も窯職保護を含めて最上の経済政策だと認めたからだと思われる。
技術的には、登窯の改良がなされて縦サマ連房登窯に移行して、どの間に(室)でも焼ムラのない均質な焼成が可能になり、規制に対応できる体制ができたこともある。窯一通は守り、窯稼人は共同で窯を使用する共同窯化が進み、仲間の規定が必要となり、窯株主、代表者など連帯とコスト削減によって問題に対処しようとした。窯株調については、「濃州5ヶ所村(指)出書写」「窯株改記録」の2文書が残っている。多治見、久尻、笠原、土岐口、下石等の各村連名で笠松郡代所に差し上げた文書の写しである。
寛政8年3月19日の調査によると下石村窯稼戸数は17戸であった。
窯数  焼成間数  轆轤数   轆轤使用者数   窯稼人氏名
一   十九         十一     四       甚右衛門
                              四       磯吉
                            三       定十
                                        忠七
一   十八           七        四       佐 平 治
                            三       利 兵 衛
一   十七           八          四         兵蔵
                                                     兵吉
                                                   甚七
一   十四          八          三       連蔵
                               二       三郎治
                             三       源蔵
一   十一          二          二       利平
一   十一          三          三       仙蔵
一   九                三       三       嘉蔵
一   十一          三              三        半蔵
一   十一          二        二          民助

下石が幕領になった当時は24通の窯株であったが、笠松代官鈴木紋三郎の増永対策によって窯株は新規に4通が許可され、更に文政年間(1818~1829)に恵那郡大川窯株を4通、さらに私領株の駄知、妻木の三株を加えて笠松代官所館内の幕領は35通の窯株を保有するようになった。
 江戸期に入って農具が発達し、厚く土砂砂礫層に被覆され採掘不能であった陶土の採掘が可能となり、土岐川南部の良質な粘土が原料として使用されるようになり、土岐川南部の諸村は窯業の中心地に成長していった。
 文化年間(1804~1817)には、隣村旗本妻木領でも新規に窯業を始める者が出現し、隣村妻木の窯業の動向は下石村窯業にとって脅威となった。文化12年(1815)12月下石村庄屋五郎右衛門外役人5名は連署したつぎのような願いを妻木彦左衛門陣屋に提出した。
 前略 妻木村窯方発向致候間下石村より焼出候品物近来不捌に相成窯職稼人困窮致相続難相成迷惑至極に奉存不得止事奉願上候   下略
と、窯稼人一同が仲間意識を高め村役人を動かして隣村妻木に働きかけている。江戸時代は組合と称していないが、窯仲間として代官所でも公認され、惣代名など文書にみることができる。
 文化14年(1817)年丑8月の「窯数併轆轤数書上帳」の大富対窯株之分には
窯株壱通 下石村 民助
 但し間数拾壱間  此轆轤数弐挺
 下石村窯株之分には
一、窯数八通
此轆轤数四拾五挺
     外 四挺仕入轆轤   持主  磯吉
                         同断  嘉蔵
此訳  仕入轆轤之儀八年々子供仕入候節仲間
中相談の上供貸いたし可相用願候
一、窯壱通  但し間数拾九   四丁 甚右衛門
          此轆轤数拾一丁  四丁 磯吉
                            三丁 定十郎
                                 忠七伜庄吉
一、窯壱通  但し間数拾八   三丁 佐平次
           此轆轤数七丁   三丁 利兵衛
                                  佐平次伜
                             一丁 利七
一、窯壱通  但し間数拾七   三丁 兵蔵
            此轆轤数八丁   二丁 甚七
                             二丁 兵吉
                             一丁 利平
                                 達造改名
一、窯壱通  但し間数拾四   三丁 折右衛門
            此轆轤数八丁      三郎次改名
                             二丁 佐助
                             三丁 原蔵
一、窯壱通  但し間数拾壱    二丁 利平
            此轆轤二丁
一、窯壱通  但し間数拾壱         仙蔵 持主
            此轆轤三丁      二丁 半平
                              一丁 半兵衛
一、窯壱通  但し間数九       三丁 嘉蔵
            此轆轤数三丁   
一、窯壱通  但し間数拾壱     二丁 半蔵
           此轆轤数三丁          同人伜
                              一丁 市郎右衛門
右は此度窯数併轆轤数御改被仰窯仲間中立合之上相改候処書物之通相違無御座候以上

   土岐郡下石村  庄屋      五郎右衛門
   文化十四年丑八月
  笠松
    御役所
前書之通り御改之上先規之通窯数併轆轤数共一切増申間敷旨被仰渡承知畏候依之仲間惣代を以御請印致差上申候依而如件
                            下石村窯仲間
 丑八日                       惣代 甚右衛門 
                                                              同断 折右衛門
                           同断 嘉蔵
 
窯数、轆轤数は寛政8年時と変更はなく、下石には9通の窯株、47挺の轆轤、121間の登窯間数で稼働し、窯稼人が20人と3人増加している。こうした文書の中には窯仲間、惣代名があり現在の組合と同様な組織を持ち、それが今日まで呼び名を改名したりしながら綿々と継承されていることを明記しておく。
 当時下石村の製造品は、香炉、仏器、味噌壺、小茶碗、花生、蘭鉢、ビンダライ、二合肩張徳利、三合鳶口徳利、切立菊筒、菊型紅緒口、皿、鉢などであった。特に元禄期より清酒となり燗徳利の生産が盛んになっていった。農閑期の稼ぎで、窯永1貫59文を納入していた。
文化14年の窯数併轆轤上帳に新製窯株2通が公式記録されたことに注目したい。文化14年以前に土岐郡で新製は焼成されるようになっていた。


下石の新製窯をはじめた人たち
 文化文政頃に至ると南ヶ洞の黒色粘土と窯ヶ洞の白粘土と混入して1種類進歩せる太白焼を製造した。これは土焼と石焼との中間のものにて、今やまさに磁器の時代に移らんとする段階なりきと「郷土下石」にあり、素地においても白色を好む傾向が出てきて、製陶技術も進歩したものと思われる。この頃多治見では新製窯株を取得して、窯の改良等により新しい焼物生産に入った。新製の情報と共にその技法が文政(1818~1829)のころには各村に伝えられたといわれる。下石村は天保元年(1830)新製窯が稼働したと伝えられている。
 下石村の磁器は、三河国八草村生まれの加藤利兵衛が瀬戸で陶業(磁器製法)を習得した後に下石に来て、陶業家の加藤氏家の四世裔孫佐平治の弟兵助より三代目の加藤利兵衛方に入婿して利兵衛を襲名し、その四代目となった人物である。磁器の製法と共に新しい丸窯を導入した。
天保10年(1839)ころの生産品は、二合肩張徳利、三合鳶口徳利。切立菊筒、茶碗、皿、鉢、壺、キリギリ仏器など陶器のほかに磁器製品が焼成されるようになり、特に磁器製燗徳利としてすぐれたものであった。下石職人の轆轤の技術を生かし白沢、西山を土を活用して作られたという。
 新製の先進地多治見、市之倉にとって強力な競争相手となり、天保14年(1843)下石村窯株12のうち3株が新製窯株となった。笠松代官所には窯株は40となりそのうち8株が新製株であった。
 天保13年(1842)の村焼高は次の通りである。
下石  新製    3245個  636両
    土焼    10980個  990両
一個は品物数百個入りのもの  一駄は10個
新製業者15名平均生産高216個(茶漬け茶碗、茶呑茶碗)
          平均生産額42.4両
本業業者8名平均生産高1373個(燗徳利うるか壺)
          平均生産額123.75両
天保13年多治見、笠原、久尻、高田より下石、市之倉新製物差留願いがでる。
 元禄16年より焼物窯一筋 運上永79文1分 焼物窯
 8筋運上永一貫59文 文政6年より新製焼物窯8筋
運上永546文を上納してきた。天保14年も同様を納めた。この年は土焼物・新製染付物合計14233個程生産した。
美濃焼取締所
 美濃焼取締の第一は窯株を統制し、みだりに窯を築かせないことであった。それはまた窯仲間を保護することにもつながるが、窯仲間でも互に規制し合って生産、販売がなされた。寛政12年(1800)の窯方取締一札は、その仲間内の取極を犯すものへの対策としての取締りであり、窯職人の代表として行事、年行事が立てられた。
 享和三年(1803高田、滝呂、多治見の行事年行事より、美濃焼物の買収値段、徳利焼増分の扱い方、美濃焼物代金の受取り方、拝借金返済方法などについて笠松役所に願書が出された。笠松役所は名古屋瀬戸物楷書の車屋利助へ尋問し返答書を受領し、重ねて美濃焼方出願之儀再願書申立書を提出した。江戸での売掛金が滞り、窯元難渋のために江戸への直送を企て美濃国産焼物置き場を立てようとした。下石、市之倉は水揚会所の設立に反対であったが、後説得されて同一歩調をとったが、この時は会所設立は失敗した。
 焼物のうち下石の特産(小茶碗)は他村では焼立てをしないという取極めがなされてそれを守っていたのが親荷物で、これは村の特産を他から侵されない自衛の手段として尊重されてきたが、下石の親荷物が侵される事件が生じ、焼呂村に対して訴訟をおこしている。これも窯仲間の大切な役割であった。
 美濃焼取締諸の開設は天保6年(1835)で、開設に伴い美濃焼取締規定を定め、窯元から公的な取極めとして取締書、取締役を選定した。
 笠松役所から触が出て公認された取締所体制が整い、機関を経ないものは抜荷とされるなど業界の保護と共に規制が強化された。経費は荷代金の五分をしたが、天保12年(1842)2分5厘に軽減された。取締役西浦圓治は美濃焼業界に君臨した。その反発が取締役解任運動となった。
 天保13年(1843)2月多治見・市之倉・下石・笠原村窯元惣代より、取締役圓治解任願い
が提出され、圓治より解任に対する返答書が提出され、窯元惣代より取締役解任願之儀吟味下げ願書が提出し、解任は失敗した。
水野忠邦の天保の改革の低物価対策によって、問屋、組合仲間等の停止触、御国産物江戸積み廻し方締など、江戸物価引下げの政策によって流通は混乱し、やがて窯仲間は再興されるなどがあり、規定は強化された。蔵元、仲買人の規制も強化された。安政二年(1855)正月仲買取締講証文が仲買総代より美濃焼取締役に提出し、公正な商売を公約している。蔵元、仲買人の規制も強化された。嘉永二年下石には仲買人は大・中・小株あわせて11人いた。課題はあったが、窯稼人は増加して、安政三年(1853)31名となった。安政四年(1854)焼成品は土焼蓋物、茶呑、茶漬碗、燗徳利、盃、土瓶、水入などで燗徳利が文献で初めて出現した。本業の土焼から新製は、白沢西山、釜洞等の原料と関係が深い。木節粘土、蛙目粘土、蛙目粘土長石、蛙石などの原料を水車を使って粉砕して石粉にでる千本杵搗の完成による、石粉はたきと水簸されるように動力革命によって供給量が増加して、原料土の心配がなくなってきた。笠原川、妻木川、肥田川、下石川などには石粉はたきの水車が稼働するようになった。
安政五年八月窯職人賃金書上帳の賃金は次の通である。
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窯賃借は一間一度焼金二分宛であった。
安政六年(1859)表向き窯五基で、四基は休業となっているが、実働は14窯であったといわれ、新製窯が急速に増加している。安政の大獄、安藤対馬守の美濃産地問題など世情不安となり、幕府、尾張藩弱体化が進み窯業界にも変化が出てきて、規定違反者が増し、美濃焼取締役の下に、下石五郎衛門ほか7名)の設置を窯元庄屋より願い仲買人の取締りの強化をはかったが、流れをとめることはできなかった土岐川は氾濫し、尾張の村々はその都度大きな被害を受けた。その原因は焼き物に使用する陶土、絵薬などの採掘燃料の薪を採伐で山林を荒らしたことがあげられた。 
安政二年(1855)七月の家屋敷、田畑の流失まで出した風水害後、笠松郡代が下石村ほか五ヶ所の陶器稼ぎに者の自普請による石砂留普請を命じた。安政三年より元治二年まで窯稼ぎ人たちが庄屋の指示のもと1465両3分の費用を使って石砂留普請をした。(砂防工事)
嘉永二年(1849)二月に五か年焼減窯仲間規定に下石は窯惣代五郎右衛門 春助が連印し、窯の焼減を実施している。不況により販売が減少による生産調整である。
五郎右衛門窯   16間     五か年20度を15度に
磯吉窯      本業交窯   五か年30度を25度に
利兵衛窯     27間     五か年30度を25度に
兵蔵窯      本業17間   五か年25度を20度に
源右衛門窯    12間     五か年20度を15度に
半蔵窯      13間     五か年20度を15度に
千代助窯     16間     五か年20度を15度に
由兵衛窯     12間     五か年20度を15度に
作助窯      13間本業交  五か年20度を15度に
 美濃焼物締方請書が窯元より提出され不正な取引をしないように努めた。
 嘉永四年(1851)から明治五年にかけて下石の47軒が西浦店と取引き、荷代預かりとなっている軒数25軒と半数に及び、仕送り窯状況で西浦店に従属していた。
美濃焼業界に対する多治見特に西浦の力は大きく、村々の反発も強かった。

明治維新と窯業
東山道先鋒総督郡が京都を出発して江戸に向かい明治新政権の支配が開始された財政基盤の弱い先鋒軍は、財政基盤美濃幕僚に求めた。平穏裡に収公する必要があり急激な変化と住民の動揺を防ぐために制度が旧来のままとした。美濃は富み、収公は容易で慶應四年(1868)の1月末には明治維新新政権の統治下に入った。
 窯業界も旧制度の窯株、蔵元制をそのまま多くの課題を積み残した出発であった。当時本業67基、新製窯6基計72基が、年々登り窯の間数(室)を増す共同窯化により、窯稼人を増加させ共同窯化によるコスト削減、分業化窯詰、焼成など競争原理の導入によるなど、制度内で生き残り生産量を高めようとした。従来の流通では対応できなく、政権交代による財政基盤の弱体化、農作物の不作や社会不安による、村の疲弊などにより物価の上昇は不況による販売不振による生産調整等の課題が多くふきだしてきた。
 慶應二年(1866)神明山事件起こる。慶應三年夏から秋にかけて美濃一帯にええじゃないか流行する。米価高騰する。極貧窮物乞者が発生する。村役人、窯主等が救済に努めた。
 職人の賃金、原料代、燃料代を支出し、年生産額1626両前後で、一戸当平均は滝呂が一番多く百両、下石は三位であった。
明治元年(1868)四月、下石は笠松県の支配地となった。地方分権から中央集権に変更されたことになる。深沢で有数の加藤和助が蛙目粘土を発見し、多治見、高山に販売を開始した。新時代のとりくみに対して、原料確保の関心が高まった。

土岐郡騒動と下石の人たち
明治2年(1869)下石の戸数212戸、人口981人、窯数10基、家稼人49人増加し、窯業に従事する者が農間稼には増加している。農業戸数は表むき208戸、陶器製造業1戸となっている。この年は5月より霖雨大凶作で平年の半作となり、米価は上昇し、安売米で飢人を救うことが実施されはじめた。美濃焼産地から出荷する陶磁器は多治見商人の独占で、下石、妻木との確執は、出荷先の妨害、商人同士の販路競争、窯元と仲買商人の利害など根の深いものがあった。土岐郡でも工業人口の多い下石、妻木等五ヶ村は、旧来の悪政が改廃され、生活は楽になると期待したが、需要増加もなく陶磁器業は不振に苦しみ、物価騰貴は生活をおびやかした。農民は重税に苦しみ土地を失い零細農民、日雇労働者に転化していたし、窯稼人は資力を貯えられなくて零細陶器職であった。その上に陶器労働者として流入する者も増加して、消費者が相対的に多くなっていた。米価騰貴、貨幣不融通をもろに受けて生活は苦しくなった。反面多治見承認、豪農は富を貯えていった。商品生産の発展と共に貧富の差は大きくなり、飢人が出る状況に対して新政府、村役人の対応は弱かった。政情不安、零細な窯稼人、零細農民、日雇労働者の不満が爆発したのが土岐郡騒動である。
明治2年(1969)7月14日に数10通の落書や張紙が貼りだされた。
「老中女中子供を禁事 今般豊蔵祭相催候村々臓分の祭礼故 当十六酉上刻に出張可被為有候 以上寄合場所土岐口神明宮師者村々評議上 七月十四日」
 7月16日には下石町清水舟木常九郎 林吉平の首謀者は「不参の村々は家別打毀ち また焚払可申」と檄をとばしたのに呼応して下石、妻木など村々の村民が一時に蜂起して500余人が神明山に集合した。高山村から酒、弁当が運び込まれ意気があがった農民は同夜高山村深萱惣助、久尻村山村兵次郎、安右衛門ら4軒を打毀し財貨を奪って退散した。笠松県から判事小崎公平が鎮撫に赴いたが、手のつけようがなかった。
 17日には1500人余が神明山に集合して多治見に乱入した。西浦源三郎、万平などの居宅を打毀し財貨を奪った。この時に米相場百文一合を百文三合売りにすれば乱暴は差押える約定が、裏工作で出来ていたが、爆発した庶民の力を押えることができなかった。永年の搾取、支配に対する怒りと確執は燃えつきるのを待つしかなかった。
 18日は、1300余の農民が西浦円治宅を目指して多治見に向かったが、小崎公平の鎮撫によって防がれ、反転して肥田村、山田村に侵入し、10軒余を打毀した。
 19日、群衆は木瀬村(現藤岡町)外13か村の農民と一緒になって木瀬村の豪農善左衛門の居宅を打毀し、笠原より多治見に進もうとしたが、久々利千村平右衛門の援助を受けた小崎公平に押えられて、40余人を捕縛された。恐れをなして逃走するところを尾州、加納の藩兵に追詰められ、妻木村外村々で首謀者を含む200余人を捕縛した。
 20日、岩村藩も残徒を追い、戸狩10、小里3、萩原3、久尻1、笠松1、浅野1、中肥田2、
下山田2、下小田3、土岐口1、下石゜1、伏見平貝戸1、定林寺1、上小田3、寺河戸6、妻木4、高山2、河合3、下肥田2、尾州今村1 などで54人を召捕え、鎮定した。25日に平静に戻り終結した。首謀者常九郎は牢死し、吉平は准流10年の刑を受けた。
 窯業地帯の兼農零細陶器職の生活を窮迫させたことが基因であるが、窯株、蔵元制、仲買人規制に対する反抗であり、撤廃運動でもあった。窯株制、蔵元制を内部からくずしていった。維新期の急速な窯業生産の発展が基盤にあり窯稼人仲間や村役人の対応が村内に被害者をだした。美濃106基、997間、窯株主251名と急増した。下石は11基、窯稼人54名、窯間数82、平均間数7.5で他村ほど増加しておらず、旧窯株仲間はしっかりしたものであった。貸窯、譲渡が盛んとなる。明治4年窯株、蔵元株が鑑札制となり、旧来の窯株仲間は制度上解体されて、窯主仲間となった。

窯株 蔵元制から営業、鑑札制と窯元の動き
 明治五年(1872)八月窯株、蔵元制度廃止、納税第一義とする鑑札制度が実施され、戸長、副戸長制として、旧来の制度の全面改正、公の営業鑑札により自由営業となった。
明治六年(1873)稲津水車稼により陶土の製造、(石粉)が多くなり、製陶、製土の分業化が進む。酸化コバルトが多治見にはいる。
 明治初年の岐阜県の三大産業は美濃縞、美濃紙、陶磁器で美濃焼の中心地は猿爪、小里、釜戸、根本、小名田、笠原、下石、妻木、駄知、高山、久尻、土岐口、肥田、浅野、茄子川、原、多良子、大栗、馬場山田、久々利、大原で美濃焼生産高3800万個、政策学172000円、全国の26.4%で全国一の生産地となる。明治七年下石の登窯8基、窯間数88間、窯稼人37名、各村とも創業廃業多い変動期であった。当時の一般庶民が日常使用する食器類が40種類にもなり、安価なしなものが多い。日本一の生産地に躍進し、大正末には全国に美濃焼を普及させて食文化を高めることに貢献した。
 明治5年(1872)4月窯方規制請書に署名者が各村にあり、窯方の連帯は残っていた。道路の改修、陸運会社の設立、コバルト、窯業機械の輸入、万国博覧会への出品など窯業振興の諸条件が整備され、各村々の先党者の大胆で決め細やかな施策、先導が効果的に生かされて活気に満ちていた。明治8年今泉正心、伊納忠治は(陶磁器製造盛二行ワレテ、其器物多クハ該地ニ輸出す。之ヲ買得シ、以各軍ニ運輸ス、故ニ行人旅客、絡繹トシテ絶ス」
と報告している。
山崎県令の美濃焼に対する提言と対応
 明治9年(1876)生産高の99%が磁器となり、生産額は98.6%を占めるようになり磁器生産に急激に転じた。明治11年(1878)岐阜県の小崎県令は次のように美濃焼について指摘している。
 従来の粗製廉価の飲食器だけでは成功品を求める海外輸出には対応できなくなる。今後は廉価で大衆的な焼き物と同時に、つとめて精良品を製作しなければならない。そのためには窯の改良、機械の導入についても、その実物を認め、積極的にとり入れていくことが肝要である。
 明治12年(1879)シドニー万国博覧会に下石、笠原、多治見から331点出品する。輸出が生産額の51.8%を明治14年に越えた。この年の下石の職業別人口は、男子の工業人口259名、女子181名で、職業別人口の46%と実に高くなっている。下石の石粉用水車34輛、陶土工場一、コバルト製造一、商業戸数三に、分業専業化が進展した。
不況に対する官民のとりくみ
 明治10年(1877)西南戦争以後は武力による反政府戦争はなくなったが、財政基盤の弱い政府は、財政再建の施策を実施した結果、デフレとなり、米価の下落、諸物価の急落、国税の増税、租税徴収の強化などにより不景気となり、生活窮乏したり破綻した庶民が多数出現し、村や資産家は救済に努力した。11~12年の施策による紙幣価値の下落、物価騰貴の是正であったが窯業界にとって大問題となった。明治14年(1881)10月7日岐阜県は産業振興を計るため、農商工諮問会議細則を定め、各町村に諮問委員の任命、内国勧業博覧会など景気回復に努めた。行政の力には限界があったが、土岐郡の美濃焼生産者は604軒に増加した。
 明治14年 登窯19基 水車34輛、荷積車1輛 陶土山は裏山・西山 コバルト採掘日帰 馬36頭 陶磁器460万個 コバルト200貫 本業土150駄 蛙目粘土2300駄 松割木1300束で、経済の動向がよく3月25日 林蔦次郎は陶隆会社を設立した。資本金一万三千五百円 他村を含め七会社設立された。美濃焼生産高は四千三百万個 生産額は三十六万六千円となり、生産額の80%は東濃西武で専有するようになった。
 14年7月以降に生産過剰から1年間に価格が7割から5割5分まで下落した。明治15年(1882)には工場7割減産にふみきり、陶器職賃金は景気と深くかかわり次のように変動している。
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リストラにより職を失う者も出てきた。その現況を「雇い主某業を拡めしに非ず、目下生計困難に際し従来の職工は之を開放し、自家の老幼婦女に至るまで各職工に業を執るに至れり」と報じている。リストラされた職人は各戸で製陶業を開始して、従業員2.38人という小規模な工場が多くなった。土岐郡の製陶家戸数536軒、生産高3800万個、生産額2350万円で生産高・額は減少した。
 摺絵による絵付技法が広がり、染付は減少した。
 下石の土地の3分の1が池田村、妻木村の不在地主の所有となる。
 明治16年(1883)12月22日の官報は岐阜県の陶磁器について次のように報じている。

美濃陶業界の現状
 「美濃陶業はつとに日用具を製するをもって名あり、その製造の盛なる往昔より土岐郡を第一なりとす。
 はじめて磁器を製せしは、今日より66年以前にして文政元年の頃、本郡笠原町の内滝呂に起り、漸次多治見、妻木、市之倉その他諸村に及べり。藩政の頃は他領に製する物品をその領内に販売することを禁ずる風ありて販路の区域ははなはだ狭かりしが、廃藩後ようやく全国におよぶに至れる、土岐郡内の陶窯130あり、近年他の各郡に数十窯新築す。しかし16年にはわずか43なりしという
 その製品は種々になれども、最も多きは飯碗、茶碗、小皿、盃、かん徳利の5種にして、その産額は全国の4分の3を占め、実に美濃陶器の主品と称すべきなり。しかして笠原、猿爪の飯碗における、笠原村のうち滝呂、妻木の小皿における、下石のかん徳利における、市之倉の盃における、多治見の茶碗における、各その長ずる所なり。その他の各種を製するは駄知、高山、土岐口、殺ぎ、柿野、大川、水上、馬場山田、下手向などの諸村なり。
 土岐郡における陶業の隆盛を極めしは、明治12年よる2年半の間にして、したがって製すればしたがって売れ、1年の代価はおよそ百万円にのぼり、実に起業以来の盛況なりき
このとき多治見1村にて千有余人の職工ありしという。これ全く販路の全国に及べると、外国に輸出せしとによるなり。
 その不景気を来たせしこと前後3度、第一は明治元年、第二は明治9年にてその時期短く、第三は明治14年7月以来にして、今にいたり回復の兆しなし。ことに昨15年は陶器の価4割ないし6割下落となれり。これ一は他の物価の下落にしたがい、一は製造人みずから支ふる能はずして、物品を投売するによる。しかし目下製造人10分の3はほとんど破産の態にて、窯煙また寥々たり。
 しかれどもかくにわかに衰頽を来すゆえんのものは、別にその故なきにあらず、聞くところによれば昔日とても困難の時あらずといえども、当時の工人は平素倹約を旨とし、粗衣粗食に安んずるをもって、一旦陶業の振わざるも、はなはだしく困窮にせまることなかりしに、今日は一時の隆盛にあいて、たちまち奢侈の風を生じ、かつての他日のうれいなきによると。(後略)
 土岐郡の失業者113名となり、生産調整を開始する。明治17年(1884)143の製陶家が休業、倒産する。こうした土岐郡の現状に対して農商務省は、明治17年2月に興業意見で6つの改善点を指示している。また県も勧業政策を打ちだしている。
 明治18年(1885)陶隆会社不況の中わずか五年で解散する。不況の中で妻木の水野勘兵衛のフランス風薄手のコーヒー碗皿の製造に成功はじめ、陶の中村弥九郎、曽根庄兵衛らが扇形牛酪皿、白磁丼など製造に成功する。同年発行の「陶工伝統誌」には「美濃の製する磁器は皆日用小器に止り、尾張備前の諸窯の如き巨皿大瓶を出すことなく、又美術品なしとす」 と評している。

美濃陶磁業組合
 明治19年岐阜県広報で、陶磁器同業組合設立について指示指導をしている。国の施策に従い県として、今までの同業仲間では対外的にも、その権限も弱く、不況乗り切りには強力な規制、連帯を必要と考えたもので、公認の同業組合として下石製陶組合が設立され、各村の組合の連合組合として美濃陶磁業組合を結成し、下石も参加した。初代取締に西浦清七が執任した。組合の正式名称は美濃陶磁業組合取締所である。
 設立の目的は価格の切り下げと、濫造濫販競争による共倒れ防止を目的とした同業組合である。岐阜県の指導を受けて結成したもので、その組合員の範囲は土岐、可児、恵那の陶磁器製造業者、仲買業者はことごとく加盟した。本部を多治見村に、出張所を猿爪村に設置した。準則に基づいて99条からなる組合規約がつくられた。粗製濫造の防止、意匠保護、職工の雇入れなどの取り締まりが主な活動で明治5年窯株廃止以来窯主、仲買商人の組合が成立した。
 陶磁器の専製権の実施、美濃陶磁業組合取締所に、品目寸法、絵柄などを届けると、他に同一類似品がなければこれを承認し「陶磁器専製之証」を交付した。有効期限付五ケ年で、組合の規約を守る条件にて、承認を受けた品目の製造が保障された。注文が大量で生産できない時は、他の業者ら依託することができた。この専製権制度によって粗製濫造はある程度防止することができたが、専製権、意匠考案権の保護についてはたびたび問題となった。
・専製権を与えた在来品一種ニ付 磁器二二銭 陶器二〇銭 陳列場の解説
・同画様新規考案品二付     二〇銭
・甲商  一等七円 二等三円以下乙、丙、丁二分レ最下位 丁商ハ二〇銭
(組合規約二〇年改正)
 このほか証票を渡すとこの手数料および違約金等は、すべて取締所の経費に充てられた。職工の雇い入れ、職工に対しては、組合より「美濃陶磁業組合職工之証」が交付された。裏面に解約の証印が無い場合は、雇い入れることは出来ない決まりである。職工が賃金などの条件で、賃金の高い工場への異動、雇い主の職工の引き抜きを禁じたものであるが、窯ぐれとよばれた職人は一つの窯場に長年定着することなく、転々と渡り歩くことが多かった。
製陶業者から仲買商との分離を求めたが多治見の反対で法律改正まで分離できなかった。
 明治19年(1886)に長い不況は、景気が回復して業界は活気をとりもどして、業者も増加に転じ、20年には完全に景気は快復した。明治19年6月16日付、岐阜日日新聞は次のように報じた。「陶器は1月以来商況稍回復し、前半に比すれば景気悪かず。一時窮乏に陥りし製陶家も漸にして糊口をなすに至り大いに製造を勤めんとする。折柄又一層景気を加え9月頃より益々活発の商況に赴き、12月頃に到り手ては三割及至五割許の高価となり、近年まれなる利益を得たる、某原因たるや、日用飲食器等支那に輸出の途開けたるに依ると雖。前年中製造家、商家と協同して組合を設け規約を定めて一月以来之を実行し、大に粗製濫造の幣を一洗、製造販売とも従前の如く秩序を失わざるに因るか、産額及び代価共に前年に比し、四割方を増加せり」
 組合設立が効果があったと評している。
美濃陶業組合商家数561戸となる。
明治22年(1889)市町村制実施、下石村となり、下絵銅版印刷を水野錦一郎創業、この年に妻木水野俊作、駄知水野儀三郎、肥田渡辺宝一も創業、染付の量産に銅版印刷を使用するようになる。下石では電気用碍子の製造を開始する。
明治23年(1890)下石村の総戸数283戸、総人口1283人、農437人、工440人、商63人、雑10人、その他6人磁器460万個、コバルト200貫、本業土15000駄、蛙目21300駄、木材、薪など産出とある。11月30日、妻木、下石街道開通、不景気により陶磁器下落、米価高騰。

濃尾大震災と窯業
 明治24年(1891)10月28日午前6時36分に発生した濃尾大震災により大きな被害を受けた。
濃尾地震の下石の損害は、次の通りであった。
被害窯数26基 被害間数201間 損害高8128円が窯業関係の損害で、ほとんどの窯が被害を受けた。中崩れ1か所 社寺の倒れた数1棟 半潰家屋10戸 全潰家屋5戸という損害を受けた。
 土岐郡の被害は全般にわたり、土岐郡で約10万円を生産するといわれる焼立が全くないものになるほどの被害を受けた。窯の破損を修復し、12月頃までに登窯の焼成をするために費用を陶器商等から借り入れて、生産品を販売してこれを返却するという経営をしてきた業者が多かったので、被害額は借金として残った。
 美濃陶磁業組合結成して間もなくの震災であったが組合、町村が一体となって、新窯築造資金の下付や地方税の免除、減税を請願するなどして復興に努力した。京阪神からの需要増により価格の高騰により復興が早かった。
詳しくはこちらでも→ 「濃尾大震災」
内国勧業博覧会など品質改良へのとりくみ
 美濃焼の発展には、陶工たちの研究、努力も大きい。西浦焼の西浦円治、加藤五輔、足立岩冶、成瀬誠志、水野勘兵衛など、販売に力を入れた籠橋休兵衛、加藤助三郎などである。下石の組合員も内国勧業博覧会に出品している。
第一回内国勧業博覧会(明治10年)東京上野
第三回内国勧業博覧会(明治23年)東京上野
第四回内国勧業博覧会(明治28年)京都
第五回内国勧業博覧会(明治38年)大阪天王寺
内国勧業博覧会に出品者も増加して入賞をするまで技をみがきよい作品を生むようになった。

岐阜県陶磁業組合
 明治28年(1895)3月、岐阜県令18号陶磁取締り規則により「岐阜県陶磁業組合」が旧組合を解体し、土岐、恵那、可児の三郡を区域として、販売業、陶磁器製造業、錦窯焼付業を営む者すべてを組合員として設立された。陶器商加藤助三郎が組合長に就任し、取締役は西浦清七がなった。同年7月2日組合会議で商工分離が協議されたが実現しなかった。
組合事務所、出張所は旧組合時代と同じであった。

(1)岐阜県陶磁業組合の目的
 この組合の設立の目的は、組合員一同一致し営業上の弊害を矯正し信用を保持するにあり、主要業務は陶磁器の質の改良、品種の開発、徒弟の養成、販路の拡張、専制権の保護、各種博覧会や品評会等の出品の便宜をはかることなどであった。こうして業者の保護と育成をはかった。特に専製権の保護に力を入れ、専製の期間を10年として、製造権を保護した。専製権を侵害したり、模造品の製造等があった時は、組合長は製造中止を命じ、違背金として30円以内の徴収するという罰則を定めた。
 各町村の原料土や製陶業各戸の研究、内国勧業博覧会の出品してPRによるなどにより専製を得これが特産品決定の要因となり、燗徳利、碍子、湯呑、仏器などが中心となった。
各戸は「陶磁器専製之証」を受領して営業した。
(2)陶磁器原料確保へのとりくみ
 明治23年、下石村における不在地主は、多治見村8名、池田村6名、妻木村19名、北村2名の計35名が、水田226反219歩(35.2%)畑13反410歩(14.2%)宅地22反613歩(12.4%)を占有と急速に増加した。
西浦円治、斎藤源助・万蔵、水野祐四郎の四名の不在地主が、50%、田の23%を占有し、1904年小作地27.8%が1926年には70%にも増加し、高利貸、商人資本、寄生地主として下石の農業、窯業などの支配を強化していった。
 下石で陶磁器生産を継続発展するためには、原料土の確保が重要であった。また大量に必要とする窯道具土(棚板、匣鉢、より土など)を安価に供給しなければ生き残ること困難である。こうした課題が組合員の中で現実的な緊急課題として話題となった。陶磁器原料土を採掘した山は、池田の斎藤、多治見の西浦等に買収されたり、土岐口在住者に採掘権を取得されるなど下石窯業の重大な危機となった。将来を案ずる有志が、陶磁器産業原料土を確保するために出資して買収して取得した土地が、組合で所有している登記簿の土地である。陶磁器原料土採掘が目的であり、埋蔵された原料土は場所により、質、種類、量が異なるために、公平を期し、会員共有とした。原料土は有効に使われて窯業に貢献してきた。製陶業者共有財産として組合が管理して、匣鉢、棚板、より土等の窯道具の供給、素地土の提供により恩恵を受けてきた。先人の努力した財産を、法改正などにより組合の内容、名称、規約など変容してきたが、構成員は代々継承されていて、それを組合として代々管理して財を守ってきた。
従来の組合員証は組合付属証に変更された。組合員数は販売業200名、陶磁器製造業50名、
磁器製造業700名、金欄焼付業120名、計1070名で、組合費は32~53銭ほどであった。組合は日清戦争の戦費調達のために戦時公債の購入、寄付など国策に協力した。 
土岐郡陶器学校
 窯元に任していた徒弟養成を公的立場で養成を組合が動き、明治28年(1895)3月土岐津町高山に陶磁器講習所を設立した。明治31年(1898)岐阜県陶磁器講習所、明治33年(1900)4月土岐郡立陶器学校と変更された。
明治33年の生産品は次の通りである。
三合燗 二半燗 異風本二合燗 二合燗 一半燗 一合燗 五夕燗 蓋付二合燗 曽葉徳利 天神酒 八寸神酒 七寸神酒 六寸神酒 五寸神酒 四寸神酒 三寸神酒 六寸平次
五寸平次 四寸平次 三寸平次 二寸平次 五厘神酒 五合急須土瓶 四合急須土瓶 三合急須土瓶 二半急須土瓶 二合急須 一半急須 一合急須 別大仏器 大仏器 間仏器
小仏器 後手二合急須 後手汁次 燗瓶 切立片口汁次 大仏花瓶 並花瓶 小花瓶 輪立 透箸立 橋横 大盃台 盃台 組香炉 筒香炉 大格水入 大綸子 中角水入 間角水入 小角水入 布袋水入 大時計水入 中時計水入 小時計水入 中綸子 八角綸子 四角綸子 大湯呑 中湯呑 小湯呑 孫湯呑 台付輪燈 大蓋物 台付中輪燈 台付小輪燈 小蓋物 小瓶燗 インキ入れ煙草差

下石街道石拾峠の茶屋と馬車 馬車により下石の焼物は多治見に送られました
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この写真は(大正のころ)下石町の入り口(石拾)の峠の茶屋にて撮影されたものだそうです。 
(現在は県道66号多治見・恵那線)荷馬車でここを通り下石焼の製品は全国に出荷されました。

柿野より石粉を運ぶ馬車 妻木上郷
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美濃陶磁同業組合
 明治33年(1900)重要物産同業組合法公布され、明治34年(1901)10月従来の組合を解散して、美濃陶磁同業組合が設立された。新しい組合は土岐、可児両郡の陶磁器製造業600人、陶磁器製造業40人、焼付業60人、合計700人で構成され、陶磁器販売業者は除外された。同業組合の組合長には土岐津町の青木達四郎が就任した。下石で進めていた生産コストを下げるために陶土をはじめ原料の山を共同購入などにより、足腰の強化に努めるようになり好転した。原料山を共同で購入などを組合員が実施した。すべて公平に利益を均等に与えようとし、生産管理は組合員の同意のもと組合が管理した。
内国向けの陶磁器を製造していた土岐郡の標準的な一製陶所の経営実態は、次の通りである。
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(「明治30年工業視察紀要」農商務省商工局 )

多治見陶器商組合との争い
明治35年(1903)12月、多治見陶器商組合は市之倉、笠原、妻木、下石、土岐津の製陶業者不買宣言をして各町村の独自の販売に反対した。
 明治37年(1904)日露戦争が始まり、不況となり休業、廃業者が出た。この頃釜戸長石の採掘が始まり、原料供給地と製陶業者の色分けができ、柿野より石粉が供給されるようになっていった。
 成形具を開発した林鳶次郎、石炭窯の改良を手がけた青木達四郎など窯業技術、施設、道具、原材料、経営の改善などにより品質の向上、経営の合理化に努力し、摺絵から銅版絵付により大量生産して、価格の安いことを武器として清国などに進出した。明治38年の清国市場について商工局は次のように報告している。
(然れども目下陶磁器の輸出品中にて好良のものあり、即ち愛知県瀬戸物、大中小の枕なり。画様の濃淡、品位の度合等支那向けに適当なるを以て、売れ行き良好にして多数輸出す。然るに岐阜県駄知、下石二村にて瀬戸地方の物をまねて粗悪品製造を始めるを以て前期実例の如き不結集を呈するに至らん、誠に寒心すべきなりる」
 明治39年(1911)4月産業組合法公布、好況となり、内需3.5割、輸出6.5割となる。
 明治45年(1911)3月多治見平野公園に建立の加藤助三郎表功碑の発起人に組合下石代表に加藤周助がなる
 大正に入ると不況に突入した。美濃陶磁業組合は不況対策を打ち出そうとしたが妙案はなかった。第一次世界大戦が起こり、南方向輸出が増加し景気は回復した。大正4年(1915)美濃陶磁器同業組合事務所を土岐津郡役所に移した。大正7年(1918)に世界大戦が終結すると需要の減少により下石は生産減を実施した。
米騒動
 大正7年水田耕作236戸中1反未満136戸で、米の自給は全耕作者の20%以下、農家195戸のうち小作130戸全農家の62%を占め、米購入を必要とする者は全戸数の91%であった。労働者は1765名に達した。大工場は11(8%)その生産高518,000円45%であった。電動機が工場に導入された。
 シベリア出兵に関連して、軍用米の大量の備蓄を見こし米の騰貴をもくろむ米相場師の買い占めや、米商人の売り惜しみが米価騰貴に一層拍車をかけた。米の移動問題などから発生した米価の高騰は、窯業地域の耕地を持たない労働者を直撃した。下石窯業動態、物価、賃金のうつりかわりにみられるように、下石の11工場の稼働等により従業員を他に求めて、急増した転入者は米価の高騰と下石で販売拒否という二重苦を背負った。米の異常な高騰とそれに対する当局の米価対策の失敗と、日本経済の急激な発展のひずみが、一般的物価騰貴と民衆の生活難、成金の輩出となり、大正デモクラシーの中で育成された民衆運動の動きが労働運動を活発させた。それが賃上げ運動などで、要求ストなどがみられるようになり、組合員は労務対策に頭を痛めた。一日の賃金で米が一升も買入できなくなった民衆は町村当局、区長、米屋などに対する不満をもつようになり、陶工、馬車ひき、町民などが、8月13日午後9時に八剣神社境内に集れのよびかけに200余名が参加し米騒動ののろしを最初に打ち上げた。群衆は清水、裏山、阿庄の米穀商7軒、酒商1軒、雑貨商1軒、陶器商2軒、飲食店1軒を襲い、その後役場で水野村長と談判した。急報を受けて多治見署より警部補以下多数急行し村吏員らと共に廉売方法を請ずると諭して、12時に解散させた。
翌14日警察は首謀者の検挙を開始し、陶器職工17名、荷馬車轢1名、荷車轢1名、製陶業1名、桶職1名、大工職1名の計22名を検挙した。一方役場は緊急村会を開き内地米1升20銭で廉売を決定した。旧住民と新住民の差別に端を発した転入者には米の販売拒否や区長らの差別発言があったといわれる。騒動で製陶業者は襲撃の対象となっていないし、製陶業者も検挙されるなど、陶磁器組合としての対策、支援等の資料は発見されていないが、村の米の廉売費3465円の寄付に組合員も協力したと思われる。廉売は税の等級により廉売価格を定め販売した。
 一人五合宛廉売価格(県税戸数割等級大正7年上半期)
優等等級~12等 内地米1升43銭(18.7%)
13等  ~15等 内地米1升40銭(23.6%)
16等  ~20等 内地米1升35銭(57.7%)
村は窮民救済事業に大正7年35436円を支出した。
 大正8年(1919)製陶業の創業意欲が高く増加している。下石村は町制を施行して下石町となる。
大正8年の生産品種に、仏器、湯呑、汁差、急須、柱掛、神酒壺、皿、コーヒー碗、花瓶、胡椒入が追加された。
 大正9年には仏花瓶、蓋物、植木鉢、小皿、番茶器が追加されるなど焼成品種は年々変化している。
 米騒動は統一的な組織を持たない自然発生的な民衆蜂起で、全国的に展開した壮大な戦いを体験させ、自分たちの力を自覚させ、団結する事の強さを感じさせるには充分であった。労働組合の組織化が進み、大正13年に駄知製陶労働組合が東濃で最初に結成され、下石陶画工組合が結成された。土岐津、妻木、瑞浪、滝呂の組合と東濃連合会を結成した。組合員は2018名に達した。未組織労働者を含めて3万余の製陶労働者の組合と団体交渉による労働条件改善闘争などに各町村の製陶業者、美濃陶磁業組合は対応するようになっていった。
 大正13年(1924)美濃陶磁器同業組合事務所を多治見に移転した。4月岐阜県陶磁器試験場となる。この年以降景気が町村、製品によってばらつきがみられるようになり生産額は減少した。

重要輸出品工業組合法施行後の動き
 大正14年(1925)9月1日、重要輸出品工業組合法が施行されて、輸出品製造業者は対応に努めた。
 大正15年(1926)美濃陶磁業界に専製権制度を再度導入した。生産調整をして業界保護に組合が推進役となり、土岐津、滝呂、妻木の製陶従業員の賃上げ闘争では協議を重ねて妥結に尽力した。帝国議会に提案された酸化コバルト、金液の関税化法案は撤廃させるなど活動を活発させ、組合の役割を明確にした。
 大正10年、匣鉢のプレス成形が始まり、陶土粉砕用トロンミルが普及するようになるとまもなく、下石の製陶労働者は匣鉢、棚板(エブタ)より土、クレを製造し、窯元に馬車で配布した。
 窯元の注文により素地土をつくり、土練器でねって適当な大きさに切って窯元に馬車で出荷していた。原料は西山の土、柿野の石粉、蛙目粘土などを原料として、車で運んできた。粉砕されたものや水にとけやすいものを利用していた。美濃焼は全国民が使うように普及した。
 昭和2年(1927)3月金融恐慌が起り、大不況が到来した。各陶磁器は暴落した。休、廃業者が増加し生産額が減少した。東濃連合会も組合員が減少して1335名となった。
 昭和3年(1928)から昭和6年かにかけて、製陶業者は減少して、生産額も減少していき、下石窯業動態のような状況であった。窯業関連業者が出現し分業化が進んでいった。不況化で匣鉢工場などは、製陶業者にとってコスト削減、経営上果たした役割は大きかった。諸物価も下落したが、仕事も少なく、賃金も下落して、製陶業者、製陶労働者も苦しみが多く、職を失ったものは職を与えよと叫び町村は県当局と協力して失業救済工事を起工した。工業組合の専務を永年勤めた安江利市は、失業対策事業の監督して来町し、現下石小学校造成工事を推進した後に組合専務に就任した。昭和3年7月9日に商工省は輸出品取締規則を公布して、輸出品に対する規制、統制をかけるようになった。経済状況がきびしさを増してくると業者は団結して利益を守ろうとするようになった。美濃陶磁器同業組合は、東北産業博覧会、秋田国産振興特産工芸品展、御大典記念名古屋及び京都博覧会等に出品して、美濃焼の宣伝販路拡大に努めた。陶器、炻器、半磁器、磁器が生産されるようになる。
 陶土陶石採取業3戸、製土業5戸、焼付業34戸、銅版、絵具商1戸、石炭商8戸、割木商9戸、陶器商12戸、労働業347戸と分業化したが、その後減少した。
 昭和3年の生産品 徳利、碍子、湯呑、汁次、仏器、急須、花瓶、神酒壺、柱掛、丼、
番爐、皿、輪立、箸立、茶器、掛花、ソバツボ、神器、味噌壺、便器、肉皿、コーヒー碗
スープ皿、卵差、コップ、コーヒー皿などで、内地物97%、外国向3%となった。
妻木輸出陶磁器工業組合
 国の企業政策にいちはやく対応したのが、妻木村の輸出向コーヒー碗皿の製造業者であった。大正14年には大日本中碗会を結成し、昭和4年に岐阜県一円を区域とした。美濃輸出中碗工業組合(妻木、滝呂、36名)に、さらに昭和5年(1930)6月に発展的に改組して「妻木輸出陶磁器工業組合を設立した。
 工業組合が目ざしたのは統制の強化であった。それを広域にわたって統一的、包括的統制事業へ進めなければ効果が期待できないと、岐阜、愛知県の組合代表集め、日本輸出陶磁器工業組合連合会を結成した。
妻木陶磁器工業組合下石支部 
昭和6年4月、「重要輸出品工業組合法」の一部が改正され7月より施行された。8月に妻木陶磁器工業組合に改組し、輸出、内地両業者を加えた組織となった。内地物主体の下石町の製陶業者は、法改正により加入の途が開けて、生産過剰が不況を招来したことを重く受け止め、これを統制して調整する必要を認め昭和6年9月9日に妻木陶磁器工業組合に加入して、妻木陶磁器工業組合下石支部と改称した。区域は下石、妻木で組合員257名(妻木90、下石157製陶業者外)
主要共同施設 整型工場(妻木)製土工場(下石)匣鉢工場(下石)
主要製品
妻木、薄手・厚手コーヒー碗皿、中国皿、バター皿、
下石 徳利、急須、土瓶、神仏器、花生、碍子
理事長 水野正兵衛、専務理事、熊谷三郎、水野錦一郎
書記長 西辺喜六
理事  木村藤九郎、高橋賢次郎、波多野鎌冶、大野豊一、大野篤義、鈴木由太郎
    鈴木兼助、 水野助一 渡辺周蔵、 日比野楯九郎、宮地達善、加藤忠衛門
監事  石川關一、 間宮鎌重  熊谷留四郎 鈴木九次郎 加藤俊一
妻木陶磁器工業組合下石支部
支部長               水野錦一郎  
徳利袋物部長        水野錦一郎   副部長 宮川昇作  水野鑛平
仏器部長             林伊左右衛門  副部長 林又三郎
仏花瓶神酒香炉部長 水野錦一郎
土瓶三ツ揃部長      水野錦一郎
碍子部長            水野錦一郎
白花生部長               宮川専吉 副部長 林清蔵
 妻木陶磁器工業組合下石支部として発足時の役員である。
統制命令は組合員、非組合員を問わず適用されることになり、企業統制の強化を徹底し、違反には罰則と警察権の発動を含むとした点など過去に例のないほどの厳しいもので、近世の組織と通ずるものがみられる。陶磁器工業組合の連合体として岐阜県陶磁器工業組合連合会(組合員1949名、52500円出資金)で6年9月8日に設立され、さらに日本陶磁器工業組合連合会(旧日陶連)、も組織されて、団結して経済危機の乗り切るスタートをした。
組合の事業 
組合の取り組んだ事業は、陶磁器の統制である。粗製濫造を防ぐための生産割り当て、地域ごとの生産分野の決定である。下石の燗徳利。碍子など町村の特産品は、その町村の歴史的、自然的環境の中で生まれ、明治の専製権、組合での事業の中で確定されていつた。
 統制品は最初輸出に主体を置く素地5品目(スープ皿、肉皿、コーヒー碗皿、土びん、三ッ揃砂糖入)とし、これらの品目について生産割り当てなど厳しくした。
 共同販売、最低価格の維持をはかるための共販など、従来の仲買人による買いたたきに歯止めをかけようとするものであった。五品目の統制実施は6年8月1日から実施した。岐工連の検査員の毎月厳重なチェックにより、割り当て数量を超える生産もなく、統制価格以下の横流しも防がれた。仲買人、貿易商も従来の三割高で買い取ることになりその実施が困難と思われたが、9月18日満州事変がおこり、円為替が低落により輸出が順調で、在庫がなくなる程売れる良条件となり統制と共販が順調にスタートした。 
 昭和8年(1933)1月より内地向製品も共販が実施された。共同販売の事業方法を定め、販売はすべて共同販売所をとおして行われ、販売の相手は指定商人に限定された。指定商人は美濃陶磁器商連合協会員であり、無検査貧を買い受けたり、荷代金の不払いの場合は、岐工連理事会の決議により指定商人の取り消しが通知され、いったん指定の取り消しを受けた商人は、岐工連所属の組合員の全製品の取引が停止された。違反者も時々出て除名処分者も出た。共販制度実施により仕送り窯制はようやく解消した。
 この年番煎茶碗、茶碗、湯呑など減産という生産調整を実施した。
 昭和9年(1934)統制の成果が現れて、陶磁器の価格が上昇し安定するようになった。この年も生産調整が続いた。美濃陶業五拾年史によると、統制前後の陶磁器製品の価格は、次のように効果がでた。
 土瓶三ツ揃         12銭0厘から20銭2厘
 単独土瓶(五合)     6銭8厘から11銭2厘
 三寸白花生     1銭2厘から2銭0厘
 仏食器          12厘から1銭3厘
 中湯呑        1銭2厘から1銭6厘
 徳利           2銭4厘から3銭4厘
 急須(白一合)        3銭0厘から5銭0厘
 土瓶(白五合)     16銭0厘から24銭0厘

下石小学校が福戸ヶ根への移転のより、旧下石小学校跡地二千余坪の地を購入した。下石陶磁器工業組合独立にむけて、各部門別に共同販売所、共同集荷検査所、共同倉庫、試験、研究施設、事務所を移築または新築の計画をもった。現在はその一部が残っている。
 昭和10年(1935)景気の好転はみられなかったが生産額は順調に伸びている。警察、岐陶工連取締規制普及徹底のための説明会を開く。上絵付窯の設備統制や共販などを協力に進めた。大八車や荷馬車の鉄輪がゴムタイヤ輪に変わって輸送中の陶磁器のいたみは少なくなった。製陶労働者の雇用は多くなった。
 昭和11年(1936)2.26事件が起こる等社会政治状況はさしせまってきた。薪、石炭の共同購入が始まり共同仕入れ、共同販売が強化されていった。日本陶磁器工業組合は改組され官治統制が強化された。重要輸出品取締法が10月に施行され、7月内部省令で飲食物用器取締規制が改正された。欧米工芸視察、東南諸島陶磁器事情などの講演会を重ね、輸出振興に尽力し、名古屋汎太平洋博岐阜市主催日本大博覧会に出品するなど販路拡大、研究奨励、商工座談会、市場視察、実地指導などを実施した。
販路は内地向108万204円、輸出は10万5276円で内地物が中心であった。共同販売出資総額は15万850円である。昭和12年日中戦争はじまり各組合ごとに直接検査となる。9日臨時資金調達法、輸入品等等臨時措置法、軍需工場動員適用法の戦時統制3法公布され、組合員及び家族、職員の応召があり、国防献金をした。

下石の鉱業と組合のとりくみ 
蛙目粘土、冶平山坑区、字裏山にあり、当時土岐津町加藤泉が露天掘で操業、仙助山坑区、字裏山にあり下石町の林米太郎が露天掘で操業している。耐火粘土、妻木川以西の西山一帯にも埋蔵されている。採掘後砂防工事により復元されて丘陵地化しているが、以上の埋蔵地域、採掘経過等は「郷土下石」にて詳述してある。
奥南山坑区、南山坑区の耐火粘土は、匣鉢工場にて馬車で運搬され、匣体棚板、つく、ヨリ土に加工され組合員に供給されていた。
窯道具土の確保が素地土の確保より量においても重要だと気づき、他村の手に渡ってしまう山地を買入して、原料土の確保をはかった142人の有志の先見性、多治見仲買商の支配から独立したいという願いが下石商業の今日あるをしっかりと胸に留めてほしい。窯業開始以来窯仲間は領主や、政治に左右され同業仲間になったり、領主、支配者の公認になったり、制度改正で公私の変転をくり返してきたが、この土地や共有施設を維持してきた者は代々継承してきた窯業者の代表者であることである。文献を生かしてほしいものである
 昭和13年(1938)4月1日、国家総動員法公布、灯火管制規制実施、9月、商工省に転業対策部を設置する旨公布、代用陶磁器の指導委員会を設置、指導奨励、10月より12月まで東京、大阪、札幌、福岡、仙台、名古屋で代用品工業博覧会あり、岐工連より90点出品、9月商工省石炭配給統制規制公布、10月より切符制実施、日陶連で石炭配給統制実施、岐工連で釘、針金を協同購入、また斡旋をする。
妻木陶磁器工業組合 理事長 熊谷三郎、理事、水野錦一郎以下19名、
職員10名、検査員9名
下石支部長 水野錦一郎、副支部長 日比野楯九郎 書記長 安江利一
他、以下の形態
徳利袋物部、 碍子部   神仏器部(愛岐神仏器共同販売所)
日本電磁器共販株式会社下石出張所 

下石陶磁器工業組合
本役員で3月22日下石支部分離独立して、新しく下石陶磁器工業組合を設立し、昭和14年4月2日岐工連に加入した。
米穀配給統制法公布(4月2日)国民徴用令(公布7月8日)10月価格等統制令公布、製陶労働組合解散、代用品の生産多くなる。軍需産業転出者多く労働不足となる。
下石未曾有の燃料不足となる。
コスト削減合理化を進めて共同購入にして組合員に配布も実施した。原料、資材、燃料の配給制実施によるが、昭和14年、燃料の薪不足が深刻となり、役員は燃料を求めて各地に散った。職員が奔走し、赤松の薪を3万足確保した。
9月18日価格統制令により陶磁器の価格は9月18日現在の価格で据置、11月公定価格設定、輸出陶磁器は日陶連共同受注実施で価格停止。
 昭和15年(1940)2600年奉祝典用斉器製造同奉祝上絵意匠展を開く。4月組合事務所並びに共同集荷倉庫新築する。
下石駅に長野県諏訪郡原村より35000束の松割木が到着し、馬車で組合員に配布された。こうして薪の共同制は維持され、燃料危機は一応解決し、避けられた。
下石電気碍子14工場 450万個 雑碍子 3工場
3万個 合計 695万個 222万個
ノップ 12工場 206万個  捻物 2工場 19万個 碍管 1工場 17万個
下石陶工組 陶土 3800駄 生産高460万個
輸出 6万円 内地178万円 生産額をあげる
下石従業員  10人以上  36工場  5人以上 79工場  5人以下 65工場
合計1288名である
昭和16年(1941)5月14日、貿易統制令公布
貿易整備要綱が示達され輸出品の生産はほとんどストップする。
金属代用陶器の生産が盛んになり、11月商工省の計画生産で内地向け食器7割減産を決定されて陶磁器生産は不振となった。
3月「生産者別標示記号」通称統制番号が決定され、製品に標示が義務づけられた陶磁器工業整備要綱示達されて、陶磁器の計画生産と企業整備が始まる。
  標示番号   岐726番  ~  岐905番まで
12月8日、太平洋戦争が始まり、製陶工場は家内従業員の老幼婦女子となり、極めて不振となる。
岐阜県陶磁器工業組合連合会は、商工省の指示に従って代用品の生産割当をした。
特品種(26種)16万円、甲品種(36種)8万円、乙品種(25種)3万円、丙品種(74種)4万円
既決割当7万円が16年11月より1か年の生産割当であった。

下石陶磁器工業組合生産額
和飲食器   155万円  15年11月~16年9月 155万円  16年11月~17年3月
洋飲食器    2万円    15年11月~16年9月 1万円      16年11月~17年3月
雑 品      80万円    15年11月~16年9月 80万円    16年11月~17年3月
湯タンポ    4万円     15年11月~16年9月 4万円        16年11月~17年3月
電 磁 器    46万円    15年11月~16年9 46万円          16年11月~17年3月
 昭和17年(1942)1月26日付商工次官名で県知事宛に「陶磁器企業整備要綱」を通知してきた。5月13日に企業整備令が公布された。10月6日県・岐工連の理事会、臨時総会で、県の陶磁器工業整備要綱の具体的方針が発表された。その後各種委員会により協議され、陶磁器製造企業合同有限会社、転廃業者、転廃業者の資産調査と救済方法等の方策を決めて新体制を確立した。
下石陶磁器工業企業合同(有限会社11社)下石町上絵付業企業合同、下石町石膏型企業合、下石町釉薬業企業合同、下石町匣鉢業企業合同

下石陶磁器工業組合の解散
 昭和18年(1943)岐阜県陶磁器工業組合連合会は8月14日解散し、下石陶磁器工業組合も解散し、同業組合に衣替えした。組合の資産や匣鉢工場、製土工場、耐火粘土採掘等は同業組合がそのまま継承した。
昭和19年(1944)全国陶磁器統制組合、岐阜県陶磁器統制組合に改組され、また日本生活陶磁器配給統制株式会社、日本工業陶磁器配給統制株式会社設立によって協力な統制下に置かれた。これらの業務も兼務する形となり、法による組合が解散され、同業組合として関係業務を処理してきた。組合直営の匣鉢、製土工場と耐火粘土採掘は稼働していた。
共同集荷倉庫は空襲の被害を受けないよう軍需品分散化により軍需品の倉庫となって昭和20年8月15日を迎えた。軍需の処理に現駐車場が使用された。
下石はやきものの生産を創業以来、形態、名称、公私などその時代、その場に適応して同業者は団結して、窯業を今日まで綿々と発展させてきた。
                      設立以前の窯仲間      <了>