下石町、やきものの歴史

下石町、やきものの歴史の

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このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

下石昭和のやきもの展 窯元館二階行事平成16年4月~

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平成16年4月18日~ 「下石昭和のやきもの展」  窯元館二階にて開催
ご来場の方々に、やきものを通して語りかける「やきもの史」として企画されました。
窯業関係者よりご提供を受けた品々の展示をさせていただきました
以降、桃井先生のご協力のもと、後に「まちかど博物館」としてさまざまな企画展を開催しました。

昭和初年のやきもの

明治より急速に発達した窯業は、近代化を進めながら販路を拡大し、大正末年には全国津々浦々まで美濃焼を浸透させ、全家庭が美濃焼を使うようにしました。
食文化を豊かにした下石の貢献は評価されています。昭和三年駄知線の土岐津乗入れによって鉄路は全国に連なり飛躍の期待が金融恐慌、世界経済恐慌が起こり、やきものは大下落、大不景気となり、棚浚(ざらえ)品廉売が日常化しました。
この事態の克服として法による妻木陶磁器工業組合下石支部の設立、生産制限、共販制の実施により価格の維持を直営製土工業により、生産費削減等に徳利袋
物部・仏器部・仏花瓶神酒香炉部・土瓶三ッ足部・白花生部に組織化して、手づくりでしかできない成形により取り組みました。下石の生産品は徳利、急須、土瓶、仏花器、花生、碍子など多種多様でした
窯は登窯69基、石炭窯8基、製陶業161戸で、登窯で棚詰焼成により、年間98万円の生産額からのスタートでした。

昭和10年代のやきもの

厳しい経済状況、満州事変を経て、製陶業157戸、登窯52基、石炭窯22基、生産額107万となりました。共同窯から単独窯に移行傾向が進み、また、電気 碍子工場が30余と増加し、電気碍子部が創設され、画工による染付の良品が焼成されました。下石工組直営匣鉢工場の稼動、燃料共同購入、又いこみ成形の導入により、生産費の削減、近代化が進みました。手づくり染付製品といこみ成形銅版転写製品に分化しました。
 日華事変起こり、軍需優先の経済体制化が進み、石炭入手困難や応召などにより、減産が断行されました。金属製品の代用品製産が始まり、石炭の配給が実施され、代用燃料(亜炭)80%、松割木不足などと価格統制による公定価格制の実施など統制経済となりました。下石陶磁器工業組合設立、組合事務所共同集荷倉庫の新築など体制強化により昭和15年輸出6万円、内地178万円の生産額となりました。
2600年奉祝用斎器製造、陶磁器磁器のほかにせっ器の生産、代用品、海綿鉄の製造、全国統一価格、陶磁器の計画生産、企業整備がこの期の特徴です。
共同集荷倉庫は軍事品倉庫となって終戦を迎えました。

昭和20年代のやきもの
  占領経済下のやきものは、占領軍用が優先されました。物不足から在庫製品は、よく売れました。物資不足、燃料不足より生産は順調でなく、電熱板の需要が多く生産が増加しました。占領軍のために美人額皿なども生産されました。激しいインフレにより、物価高は経済活動や生活を困窮させました。新円に切替、物価統制令公布などに より安定化が図られ生活用陶磁器の統制価格が告示され占領軍による経済統制下のやきもの生産でした。
下石陶磁器工業協同組合に改組し、匣鉢釉薬工場を新移転稼動させ、生産振興に努めました。国内統制価格が撤廃され、駄知線の電化、検量計の新設など講和条約締結により自由経済となってやきものも自由化されました。代用品はなくなり本来の 下石のやきもの生産となりました。
昭和26年、登窯70基、石炭窯50基が稼動し、窯詰焼成、窯出しの重労働に耐えて、やきもの生産が増加していきました。


昭和30年代のやきもの

30年に製陶業157戸、登窯49基、石炭窯54基となり、登窯は減少し石炭窯の増加も小さく、この時期に重油窯、シャトルキルン、ガスシャトル、トラックキルン、電気窯等の新しい窯が導入されて、この期に稼動した窯の種類は1000年の歴史の中で最多となりました。こうした窯の導入によって窯詰窯出し焼成の重労働から開放され、各企業が自由に多様な製品を生産するようになりました。匣鉢使用が減少し棚詰による焼成が生産品の大きさ、形等を自由にさせました。燃料も薪、石炭、重油、ガスと多様になり、窯の種類により酸化焔、還元焔焼成や、陶器、磁器のほかに新しくセラミックというやきものが登場しました。足踏みろくろによるトチン成形はこの期までありました。
集中豪雨、伊勢湾台風により被害を受けましたが好況により乗り越え、自動ろくろを始め機械化が進み設備も改善されていきました。
登窯が急速に減少し、石炭窯が最盛期を迎え、丸い煙突が60本ほど見られるよう町並が変化し、激しく燃える焔と焼手のおりなす登窯風景が消え、新生下石に変容した時期でした。従来の下石の伝統的なやきものから、新しいやきものの芽生えの期となった時期です。


昭和40年代のやきもの
 
40年代のスタートは、製陶業183戸、登窯4基、石炭窯58基、重油窯5基、シャトルキルン2基、ガスシャトル8基、トラックキルン4基、電気窯28基、
昭和の初期から稼動した登窯、石炭窯がなくなり、重油窯と電気窯が主役の座についた時期です。
荷馬車から自動車へ、匣鉢から新素材による棚板に、窯業の機械化(真空土練機、自動ろくろ)が進み生産量が増加し食器生産は日本一になりました。
匣鉢による焼成が少なくなり、室町時代 施釉のやきもの出現から使用された匣鉢が消えて棚詰焼成が主になり、各工場は専制権以来守ってきた専業品種か ら多様な品種に移行可能となり絵付、施釉、焼成の自動化、省力化が進みました。陶器の荷造りの職種がなくなり、木箱から紙箱へ、さらに高質磁器、セラミックによる先端技術が取り入れられやきものの果たす分野を広めました。伝統産業、先端技術による新しい産業が混在するように変容した時期です。
48年のオイルショックは業界に大きな衝撃を与えました。

昭和50年代のやきもの

重油窯、ガス窯、電気窯へ急速に移行し重油単独角窯は下石の町から姿を消していき、重油タンク、煙突も少なくなっていきました。
クリーンで燃焼効率がよく炉が小さく、焼成も楽なガス窯が多くなり、高温度計など計量器の使用により、焼成の機械化、自動化が進みました。また電気窯 は深夜電力の使用により燃料費の削減などコスト削減に努力が見られるようになりました。コンピューターが窯業界にも導入されました。オイルショック後、景気の変動、家族構成、食生活の多様化等により、従来の食器の見直しなどに取り組み、昭和56年に、土岐市産地組合多用途食器試作発表会を郷土館で開くなど、新しいやきものに挑戦するようになりました。景気好調に少しかげりがみられるようになり、企業の取り組みが厳しくなって いった期です。

昭和60年代のやきもの
大量生産により全国のやきもの産地の補完的役割を果たしてきた結果、美濃焼の特徴を失いつつあって、消費者からは美濃焼の知名度は低くなっていきました。
見本市、消費拡大のやきもの展、カタログ販売など販売の近代化の流れの中で、消費地に近さによる流通の速さなど見直し、新しい挑戦が求められるよう になりました。
生活の多様化、食生活の変化から徳利の需要減が下石のやきもの製品に大きく影響しています。陶器祭り、とっくり村構想など新しい取り組みがスタートした年代です。
電気窯とガス窯が主力でトンネル窯も増加し、コンピュータ制御による自動成形機器など大量生産方式により、人件費、労力の削減により経営力が強化、
新しいやきものの研究、セラミックの質、機能の多様化による新しい分野の開拓などにより、やきもの製品が多様化しました。
大量生産時代から生活の個性化による製品の個別化、高品質化、民芸化などが求められるようになり、もっとも進歩したトンネル窯の長所を生かす場が小さくなり、減少傾向に向かいました。
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