下石町、やきものの歴史

下石町、やきものの歴史の

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このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

下石昭和のやきもの展 窯元館二階行事平成16年4月~

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平成16年4月18日~ 「下石昭和のやきもの展」  窯元館二階にて開催
ご来場の方々に、やきものを通して語りかける「やきもの史」として企画されました。
窯業関係者よりご提供を受けた品々の展示をさせていただきました
以降、桃井先生のご協力のもと、後に「まちかど博物館」としてさまざまな企画展を開催しました。

昭和初年のやきもの

明治より急速に発達した窯業は、近代化を進めながら販路を拡大し、大正末年には全国津々浦々まで美濃焼を浸透させ、全家庭が美濃焼を使うようにしました。
食文化を豊かにした下石の貢献は評価されています。昭和三年駄知線の土岐津乗入れによって鉄路は全国に連なり飛躍の期待が金融恐慌、世界経済恐慌が起こり、やきものは大下落、大不景気となり、棚浚(ざらえ)品廉売が日常化しました。
この事態の克服として法による妻木陶磁器工業組合下石支部の設立、生産制限、共販制の実施により価格の維持を直営製土工業により、生産費削減等に徳利袋
物部・仏器部・仏花瓶神酒香炉部・土瓶三ッ足部・白花生部に組織化して、手づくりでしかできない成形により取り組みました。下石の生産品は徳利、急須、土瓶、仏花器、花生、碍子など多種多様でした
窯は登窯69基、石炭窯8基、製陶業161戸で、登窯で棚詰焼成により、年間98万円の生産額からのスタートでした。

昭和10年代のやきもの

厳しい経済状況、満州事変を経て、製陶業157戸、登窯52基、石炭窯22基、生産額107万となりました。共同窯から単独窯に移行傾向が進み、また、電気 碍子工場が30余と増加し、電気碍子部が創設され、画工による染付の良品が焼成されました。下石工組直営匣鉢工場の稼動、燃料共同購入、又いこみ成形の導入により、生産費の削減、近代化が進みました。手づくり染付製品といこみ成形銅版転写製品に分化しました。
 日華事変起こり、軍需優先の経済体制化が進み、石炭入手困難や応召などにより、減産が断行されました。金属製品の代用品製産が始まり、石炭の配給が実施され、代用燃料(亜炭)80%、松割木不足などと価格統制による公定価格制の実施など統制経済となりました。下石陶磁器工業組合設立、組合事務所共同集荷倉庫の新築など体制強化により昭和15年輸出6万円、内地178万円の生産額となりました。
2600年奉祝用斎器製造、陶磁器磁器のほかにせっ器の生産、代用品、海綿鉄の製造、全国統一価格、陶磁器の計画生産、企業整備がこの期の特徴です。
共同集荷倉庫は軍事品倉庫となって終戦を迎えました。

昭和20年代のやきもの
  占領経済下のやきものは、占領軍用が優先されました。物不足から在庫製品は、よく売れました。物資不足、燃料不足より生産は順調でなく、電熱板の需要が多く生産が増加しました。占領軍のために美人額皿なども生産されました。激しいインフレにより、物価高は経済活動や生活を困窮させました。新円に切替、物価統制令公布などに より安定化が図られ生活用陶磁器の統制価格が告示され占領軍による経済統制下のやきもの生産でした。
下石陶磁器工業協同組合に改組し、匣鉢釉薬工場を新移転稼動させ、生産振興に努めました。国内統制価格が撤廃され、駄知線の電化、検量計の新設など講和条約締結により自由経済となってやきものも自由化されました。代用品はなくなり本来の 下石のやきもの生産となりました。
昭和26年、登窯70基、石炭窯50基が稼動し、窯詰焼成、窯出しの重労働に耐えて、やきもの生産が増加していきました。


昭和30年代のやきもの

30年に製陶業157戸、登窯49基、石炭窯54基となり、登窯は減少し石炭窯の増加も小さく、この時期に重油窯、シャトルキルン、ガスシャトル、トラックキルン、電気窯等の新しい窯が導入されて、この期に稼動した窯の種類は1000年の歴史の中で最多となりました。こうした窯の導入によって窯詰窯出し焼成の重労働から開放され、各企業が自由に多様な製品を生産するようになりました。匣鉢使用が減少し棚詰による焼成が生産品の大きさ、形等を自由にさせました。燃料も薪、石炭、重油、ガスと多様になり、窯の種類により酸化焔、還元焔焼成や、陶器、磁器のほかに新しくセラミックというやきものが登場しました。足踏みろくろによるトチン成形はこの期までありました。
集中豪雨、伊勢湾台風により被害を受けましたが好況により乗り越え、自動ろくろを始め機械化が進み設備も改善されていきました。
登窯が急速に減少し、石炭窯が最盛期を迎え、丸い煙突が60本ほど見られるよう町並が変化し、激しく燃える焔と焼手のおりなす登窯風景が消え、新生下石に変容した時期でした。従来の下石の伝統的なやきものから、新しいやきものの芽生えの期となった時期です。


昭和40年代のやきもの
 
40年代のスタートは、製陶業183戸、登窯4基、石炭窯58基、重油窯5基、シャトルキルン2基、ガスシャトル8基、トラックキルン4基、電気窯28基、
昭和の初期から稼動した登窯、石炭窯がなくなり、重油窯と電気窯が主役の座についた時期です。
荷馬車から自動車へ、匣鉢から新素材による棚板に、窯業の機械化(真空土練機、自動ろくろ)が進み生産量が増加し食器生産は日本一になりました。
匣鉢による焼成が少なくなり、室町時代 施釉のやきもの出現から使用された匣鉢が消えて棚詰焼成が主になり、各工場は専制権以来守ってきた専業品種か ら多様な品種に移行可能となり絵付、施釉、焼成の自動化、省力化が進みました。陶器の荷造りの職種がなくなり、木箱から紙箱へ、さらに高質磁器、セラミックによる先端技術が取り入れられやきものの果たす分野を広めました。伝統産業、先端技術による新しい産業が混在するように変容した時期です。
48年のオイルショックは業界に大きな衝撃を与えました。

昭和50年代のやきもの

重油窯、ガス窯、電気窯へ急速に移行し重油単独角窯は下石の町から姿を消していき、重油タンク、煙突も少なくなっていきました。
クリーンで燃焼効率がよく炉が小さく、焼成も楽なガス窯が多くなり、高温度計など計量器の使用により、焼成の機械化、自動化が進みました。また電気窯 は深夜電力の使用により燃料費の削減などコスト削減に努力が見られるようになりました。コンピューターが窯業界にも導入されました。オイルショック後、景気の変動、家族構成、食生活の多様化等により、従来の食器の見直しなどに取り組み、昭和56年に、土岐市産地組合多用途食器試作発表会を郷土館で開くなど、新しいやきものに挑戦するようになりました。景気好調に少しかげりがみられるようになり、企業の取り組みが厳しくなって いった期です。

昭和60年代のやきもの
大量生産により全国のやきもの産地の補完的役割を果たしてきた結果、美濃焼の特徴を失いつつあって、消費者からは美濃焼の知名度は低くなっていきました。
見本市、消費拡大のやきもの展、カタログ販売など販売の近代化の流れの中で、消費地に近さによる流通の速さなど見直し、新しい挑戦が求められるよう になりました。
生活の多様化、食生活の変化から徳利の需要減が下石のやきもの製品に大きく影響しています。陶器祭り、とっくり村構想など新しい取り組みがスタートした年代です。
電気窯とガス窯が主力でトンネル窯も増加し、コンピュータ制御による自動成形機器など大量生産方式により、人件費、労力の削減により経営力が強化、
新しいやきものの研究、セラミックの質、機能の多様化による新しい分野の開拓などにより、やきもの製品が多様化しました。
大量生産時代から生活の個性化による製品の個別化、高品質化、民芸化などが求められるようになり、もっとも進歩したトンネル窯の長所を生かす場が小さくなり、減少傾向に向かいました。
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近代の摺絵銅版展 (2回)

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近代の摺絵銅版絵付
   平成17年2月1日~5月3日 下石窯元館2階展示 
    近代の摺絵銅版絵付け展冊子(桃井先生作)より

明治時代の美濃焼はすばらしい発展をしました。明治初年に下石の工業人口は約半数、人口流入が増加して窯業が盛んになり美濃焼きは日本一の生産地に成長しました。
日本の中央に位置し、窯業原料など地理的条件に恵まれていました。江戸末に創業した石質材から陶土製造に、水車による千木杵搗を稼動させ原料の供給に努めました。

窯株制度の廃止により、製陶業参入が自由になったこと、周辺の村からの転入者が工場労働を提供となり、さらに先人が窯業経営、機械化、窯の改良、近代化に努力したことなどによるものです。
下石の製品は機械轆轤成形でできない手轆轤による手造りの燗徳利、急須、土瓶、仏花器、壷、碍子などでした。陶工は窯ぐれとも呼ばれるすばらしい轆轤の技を所有し、代々技を継承し新人を育成してきました.。ろくろの里という特色をもち、製品から機械化できない分野でした。

絵付けは明治初年染付(絵付専門の職人による手描き)が中心で、徒弟制度により養成された職人が画工として従事していました。
明治10年代に摺絵が最高され、輸入ゴスや型紙職人の力を借りて、良品の絵付け方法が導入されました。絵付け専門の画工でなくても絵付けが可能となり、絵付けのコスト軽減、量産化、均一化、分業化が見られました。
明治20年代に普及した銅版は江戸期の再興でしたが、技術が向上して質のよい絵付けが摺絵より容易に質のよい絵付けを可能にして美濃焼きによく使用されるようになりました。
伝統的産業でありながら、絵付けでは近代的手法を取り入れて美濃焼きは隆盛しました。
国の機関からは「美濃焼きは美術品ではない」と厳しい批判を受けましたが、需要は増加し、日本の津々浦々まで陶磁器を普及させ、やきもの文化の普及に大きく貢献しました。

          摺絵

文様を透かし彫りした型紙を器面に当て、上から絵具を塗ることによって、絵付けをする方法です。
型紙絵付、型紙摺り、型絵ともいわれていますが、美濃では摺絵が一般的です。
桃山時代からの染職の型染技法が、陶磁器の絵付けに採り入れられたものと思われます。異業種の技術、道具、機械、絵画、外国文化などをたくみに採用しています。17世紀代に唐津、美濃で摺絵が認められます。陶磁器絵付けに早く採れる発展的、流暢性に富んだ人々が窯業をリードし普及したようです。
17世紀末から18世紀初頭の有田染付磁器製造に型紙絵付がなされましたが、途絶えてしまいました。
下石では江戸中期の桜ケ根窯、清水窯等の製品に鉄、呉須の摺絵が用いられていますがこれも途絶えてしまい、型紙絵付の技が未熟で、染付製品より質が悪くなってしまったことによると思われます。
明治になり、摺絵は改善され再開しました。明治4年(1871)の肥前志田焼製が最古といわれています。
明治14年(1881)第二回内国勧業博覧会に型紙絵付が新技術として実用化の状況が発表されていて、砥部、美濃など各地に技術が伝えられています。
明治15年()1882)美濃で伊勢白子から型紙職人を招いて、型紙の質を高め、輸入コバルトを用いて鮮明な藍色に発色させた近代摺絵を完成させました。窯業の近代化と深くかかわったものでした。
明治20年(1887)頃、銅版絵付が導入されると、摺絵は衰退していきました。摺絵は短期間でしたが、展示品(二階催し)のような良い製品を生産しました。

            銅版

銅版絵付のことで、銅版を印刷原版とする転写技法です。 銅版画は我国では司馬江漢が天明3年(1783)に銅版画を創製しています。これを陶磁器絵付に応用したものです。
江戸時代瀬戸陶工、川本治兵衛や稲津の里泉焼で銅版絵付けがされましたが、工程の煩雑さ、技術の未熟さ、呉須の質の劣ることなどで発色が薄く、生産効率が悪く中絶しました。
明治19年(1886)  肥前有田、牟田久次が改良を重ねて再開し、肥前各地に普及させています。 
明治20年頃、京都五条の五十嵐健二が下絵銅版を試みており、翌年美濃土岐津に招かれて試作しましたが失敗しました。
この年多治見の加藤元治郎、米次郎が名古屋から銅版彫刻師を招いて製法の指導を受け、のちに岐阜県陶磁器講習所の嘱託教師となる太田能寿の協力を得て銅版絵付を完成して、明治22年(1889)特許を得ました。
銅版絵付けは急速に普及し、妻木、下石、駄知、肥田などで銅版印刷業が始まり、美濃の銅版印刷は全国の陶業地に好評を受けました。
器面に水を使って塗布し、銅版紙をはぎとり貼絵方式で絵付けしますので、絵付が簡単で効率が良く第二次世界大戦まで絵付の主流でしたが、大戦後衰退していきました。
近年は転写による絵付けが多くなっています。

          参考文献  美濃焼の歴史      日本陶器大辞典

                原色陶器大辞典    下石町誌「ろくろの里」
 

     

染付摺絵・上絵銅版型押し展摺絵銅版(下絵・上絵)の文様について
           平成17年6月1日~9月30日下石窯元館2階催   

美濃焼が陶器から磁器へやきものを変えたことは大変革であった。肥前の老婆が「美濃焼は泥で作り、800度で焼くが、肥前は石粉から作り、1200度で焼くから・・」と語ったように粘土から石質原料に変更したことは、やきものの質を向上させた。窯も本業窯(陶器窯)から丸窯(磁器窯)に転じ、焼成温度も400度以上高温焼成となった。酸化焼成から還元焼成と焼成法・窯体を改良した。詳細は「登り窯ばんざい」に記されている。やきものが白くなり、水の浸透性はほとんどなくなった。さらに美濃窯のあゆみの中で、器面に描かれた文様の種類と量の多さである。器面全体に文様をつけて素地土をかくしてしまう手法は初めてで、絵付の面でも大きな変化がみられる。
絵付の内訳をみると、その多様さに驚く。これは染付から摺絵・銅版によって画工としての技術がなくても描かれるようになり、スピードが増し量産ができるようになった、摺絵銅版は窯元が購入して使うようになったなどによる。窯業の分業化など近代化が見られる。
 (1) 主文様
 1. 日本画  中国画のやきものに取り入れられた山水画・風景画が海・川・山・田園で二見ケ浦・富士山・竹垣・二十橋などで摺絵は数種あるが、銅版は多様で種類も多い。
 2. 動物文  動物では馬・猫・虎・鹿・熊・牛・蟹・兎・金魚・鯉・鮭などである。「猫と穂草図」は人気があるという。昆虫では蝶が多い。
 3.人物文  唐子・賢人・恵比寿大黒・弁財天・牛若丸・小野道風・坂田金時・八幡太郎義家・楠正成・児島高徳・花咲爺・美人画などの故事、由来、歴史上の人物が多い。上絵付の小皿は美人画が多い。 
 4. 空想の動物文  鳳凰・麒麟・龍・獅子・などで銅版画の細密画の中には面白いものが多い。
 5. 鳥類文  花鳥図・鶴・孔雀・鴨・山鳥・雉・鵜・鷺・鳥・鶉。不如帰など。 
 6. 草木文  松・牡丹・梅・桜・菊・木蓮・芭蕉・菖蒲・石榴・椿・桃などがあり、複合されて描かれている。
 7. 開花図  軍旗・帆船・凌雲閣・造幣局・鹿鳴館・扇面・金魚玉・生花・汽車・双翼飛行機・船・城郭・カルタなど時代によって特徴がある。「文明開化」「日清・日露戦争」物が多い。
 8. 図案文  捻文。投網文・微鹿文など抽象的なものが多い。


 (2) 枠文様
 1. 角皿の周辺部分が主文様の額縁に相当するところに描かれた文様であり、花柄・吉祥文・つぶし文などがある。やや大きな角皿、隅切り角皿は明治期に生産という特色を持っている。桃山陶に四角形の器が登場し、陰陽のうつわが生まれたが、明治期にはさらに美術的飾り展示物として使用されるようになった。
 2.枠の四方や隅切部に窓を作り、その中にも吉祥文・松竹梅・鶴・富士・リス・六歌仙・カルタなどが描かれている。また隅に亀甲文を入れるものもある。
 (3) 裏文様
 1. 角皿の額縁部分の裏面に描かれた絵柄・文様は革文・枝文・唐草文・七宝文などである。肥前窯・美濃窯・瀬戸窯・砥部窯など窯場により、また窯元によって特徴があり面白い。その他の器種にも裏面にも裏文様が描かれている。表より量は少ない。駄知山文の器では、裏文様も全面に文様をつけた例もある。
 (4) 記銘
 1. 高台内に記銘が染付・刻印・銅版などで記してある。玩・上・朝・大日本山治製・清陶所造・田角冨・山田製・手塚製・有権専製・山文・中嶋製丸久など。
 2. 記銘のある器種、量は少ない。
 (5) 記銘の文様の特徴から、京都鹿背山銅版川治銅版・中島銅版など呼ばれるが、各地の銅版転写を製造業者から窯元が仕入れるので同じ図柄があ。。同じ図柄の器では美濃の銅版屋が写したものもある。従って文様だけで産地は特定できない。
 明治11年(1878)岐阜県令(知事)から美濃焼改善について指摘を受け改善に努めた。銅版で絵付けしたものと手描(染付)された製品が東京市場で同価格で販売されていたこと、生産経費削減となること、分業化、専門性による量産体制により生産量が増加し、生産調整がなされるほどになった。
 銅版のよさを生かし、銅版絵付の製品が内国博覧会で多く入賞するようになった。銅版の技術の向上、貼り付けの技の向上などにより質の高いものになった。上絵付けが入り色が多彩になった。
 磁器は九州から約200年おくれて創業されたが、短期間に技をみがき九州に追いついた。
 

参考文献 岐阜県陶磁器資料館「明治の摺絵・銅版」1996
 多治見市文化財保護センター「研究紀要第6号 銅版下図案集」2001 
 土岐津町編集委員会「土岐津町誌」


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1616 元和元年  ・李参平有田天狗窯で白磁焼成(磁器創始)
1658 万治元年 ・妻木氏廃絶する。妻木氏私領幕領(天領)となる。
江戸中期 ・鉄山呉須の摺絵はじまる。
1777 安永六年 ・杉野分助、釉石 釉を筑前に赴いて求め磁器の焼成に成功。
 砥部焼の始まり (大内優徳「伊予の磁器」 雄山閣出版)

1791 寛政三年 ・御荘 菊川焼始まる(同上)
1791 寛政八年 ・瀬戸村等3か所より美濃の新窯差し止めを願う。
 窯株天領24株私株14株、駄知4株

1801 享和元年 ・瀬戸村で新製染付焼に成功
1802 享和二年 ・尾張藩蔵元制度創設 徳利売捌きについて文書初見
1803 享和三年 ・美濃焼尾州御国産となる。
1804 享和四年 ・この頃より市之倉にて新製焼はじまる。
1808 文化五年 ・市之倉郷 下石村 笠原村 高田郷より新製窯取立てを願い出る
1824 文政七年 ・円治徳利の仲買いを始める。
1826 文政九年 ・円治新製焼物買い始める。
1835 天保六年 ・多治見村に美濃焼物取締所設立、美濃焼物市規定とりきめ
1840 天保十一年 ・京都の五条坂窯で京都絵師の雲洞中川利三郎(後の豪商 芝川又平)が、この年に 磁器
 染付プリントを転写するのに成功させた。
(三好一「幕末明治のプリントウェア」The骨董9号 読売新聞社)
・五条坂より京都府南山城で鹿かた山銅版転写が始まる
・蘭学銅鐫(どうせん)界の取締りがあり、江戸の銅鐫界は致命的な打撃を受け銅版鏤刻
 の中心は、江戸を離れて、尾張以西の上方へ移った。銅版師梅山翠山は「銅版は幕府
 の忌む所となり、公然為すを禁じられたり ために東都に弘化の頃、その人あるを聞かず」
     (春田明「江戸時代の銅版紅毛文化(3)」陶説359号日本陶磁協会)
1846 弘化三年 ・美濃では江戸の銅版師笠井大五郎が、稲津の里泉窯で銅版染付磁器を焼成
(瑞浪市史他)
・笠井大五郎は瀬戸焼に銅版法を伝える。その後美濃下石 駄知方面へも伝播させるこ
 とになる。(瀬戸市史陶磁編3)
1848 嘉永元年 ・瀬戸では名工の誉れ高い川本治兵衛がオランダ製の銅版転写による磁器を見て、自らの創意工夫による瀬戸磁器に染付をプリントすることに成功した。(三好一)
・その後治兵衛の弟子加藤新七が川名銅版焼(名古屋市昭和区川名山町)を始める
 浮草牡丹唐草がどの作品にもある。
1850 嘉永三年 ・栗田の陶工 丹青海が陶磁に精密な銅版画を転写することに成功した。(三好一)
・恭邦和尚 井筒六兵衛 、小木曽定平、和田政七らの参加協力により、水車利用の千
 本搗法創始。
1859 安政六年 ・箱館焼始まる。
1862 文久二年 ・紺青を領外に持ち出し禁止される。
1868 明治元年 ・下石の深沢で有牧の加藤和助、蛙目粘土発見。多治見粘土に販売。
1869 明治二年 ・木股島去 肥田蛙目発見 上肥田水車稼動
・来朝したドイツ人のワグネルによって新しい西洋の知識と技術が導入される。これを出発点と
 して西洋コバルトの応用が肥田前有田に始まる。
・土岐郡騒動(7月16日)
・土岐郡に150軒水車があり染付磁器業窯8基となる。
1870 明治三年 ・益見で藻珪石石粉製造を水野為助創業。
・土岐郡の登窯106基、997室。
1871 明治四年 ・水上の永井徳右衛門  小木曽増右衛門 製土業始める。
・窯株蔵元株が鑑払制となる。
・下石製陶戸数57戸、登窯12基。
1872 明治五年 ・加藤助三郎 東京に陶器舗を開く。
・笠原干倉石産出。
・窯株蔵元制度廃止。鑑札制度実施。
・多治見 大藪 大針町で宮島竹次郎カオリンを採掘。
・安藤与平次 釜戸 細根で釜戸長石発見。
1873 明治六年 ・珪長石を原石とする稲津陶土の製造。
・水車73輌 杵数587本、業者70
・美濃焼生産高4.000万個、約3万円。
・陶磁器下絵具。酸化コバルト多治見に入り染付に使われ始まる。
・オーストラリアウィーン万国博覧会出品。
1874 明治七年 ・梅村翠山の門人、中川耕山が銅版技法を研修のためアメリカに渡った。帰国後凹版刻銅版に精通し、銅版染、銅版蒔絵、銅版陶画焼付を発表。(春田明)
・備前の松尾喜三郎が型紙絵付を復活させ後に銅版転写の技法も取り入れた。(町田市立
 博物館「明治印判史の磁器」
・須之宮で土屋又助、石粉製造始める。
・美濃焼生産高3.800万個、生産額172.000円、全国の26.4%を占めて全国一位となる。
 (児島氏産業史)
・下石登窯8基、88室、製陶戸数37戸。
1877 明治十年 ・加藤亀太郎、絵の具製造を専業とする。(赤絵の具専業者誕生)
・多治見の加藤貫一 釉薬の中に石灰石を入れることを発見。
・土岐郡の生産額183.688円。
・伊藤充譲(五松斎)五本末に開業。備前陶工を招き型絵付技法習(太田優徳)
・御荘焼(南宇和郡恩荘町長月)創業。
・広島県賀茂郡高屋町小谷に小谷窯開窯、職人は砥部から来て型紙染付をした。
 明治30年廃業(村上正名 広島のやきもの)
・備前の型紙彫刻師の串田久次が有田に来て彫刻を始める(町田市博物館)
1878 明治十一年 ・県令 美濃陶磁器の生産改善点について指摘する。
・加藤五輔 パリ万国博覧会で名誉賞受ける
1879 明治十二年 ・鈴木義右衛門 肥田蛙目を採掘する。
・西浦円治オーストラリア シドニーで万博に出品。
・輸出は307.000円で、生産額の19.4%
1881 明治十四年 ・輸出は811.000円で、生産額の51.8%。
・下石村、石粉水車34輌 陶土工場2 コバルト製造1
 商業戸数32戸、中馬36頭、荷車2輌。
・陶磁器の県下の生産額の88%東濃市場で専有。可児、恵那を含めると、98%を占める。
・土岐口蛙目粘土強粉採掘始まる。
1882 明治十五年 ・輸出は生産額の52.8%。
・脇之島(多治見市平和町)上田幸右衛門は伊勢の白子(鈴鹿市)から型紙職人3人を招き
 型紙を造り、脇之島の窯で、磁器染付の碗を焼く。
  (多治見市教育委員会 美濃窯のやきもの)
1883 明治十六年 ・美濃焼の産額は全国の四分の三を占め輸出は全産額の59.9%となる。

1884 明治十七年 ・京都の武田広吉 脇之島で型紙切りをする。
・土岐口窯元 土本康兵衛 深沢で蛙目を採掘。市之倉に売る。
・土岐、恵那の製陶業1208人。
・遠州三日日村出身の猿爪の中村弥久郎 太白素地の研究に成功。
・扇状の牛酪皿を製造。
1885 明治十八年 ・備前の島内九一は脇之島で型紙染付をし、その後、駄知、笠原でも型紙彫りをやっていた。
 摺絵による磁器染付は今の瑞浪市、土岐市、笠原町へも広がり盛んになる。
 (美濃窯のやきもの)
・妻木村の水野勘兵衛、フランス風薄手コーヒー碗皿の製造に成功。
・輸出品は名古屋へ素地出荷、絵付は名古屋でする。
・土岐郡製陶業534年 12時間労働。
・土岐口追沢紺青摺り終わる。
・猿爪村の曽根庄兵衛 靖国向 白磁丼を製作。
1886 明治十九年 ・市之倉旧窯跡に丸窯を築く。染付花瓶、肉皿、コーヒー碗生産。
・下石製陶業組合設立。
・美濃陶磁業組合結成。「陶磁器専製の證」の発行。
1887 明治二十年 ・西浦円治が西浦焼上絵付工場を設立し、大岳彦兵衛を起用し、輸出品を製造する。
・土岐郡製陶業581戸。
・明治20年を過ぎると銅版染付が再び実用生産される。この付近では名古屋から銅版彫刻師
 を招き、製版法を教わったと言われる。この技法は美濃窯全体に普及し、現在まで受け継がれ
 ている。(美濃窯のやきもの)
1888 明治二十一年 ・五十嵐健二なる人物が京都五条坂で銅版応用の転写印肉に白笈を使用し、美濃土岐津において実行した。この法は簡便なるうえ工費を省くので美濃から瀬戸有田本郷などへと伝播して
 いった。(春田明)
・下石製陶業66戸、職工157人(女子1名)
1889 明治二十二年 ・明治22年に大阪に九階建の陵雲閣と称する展望塔ができ翌年負けじと東京浅草にそれより三階高い十二階建の木造れんが造りの浅草陵雲閣が開場した。関東大震災で破損撤去した。
 (佐藤武久「染付開花絵の美」小さな蕾185号)
・太田能寿が素地に転写する画期的な転写紙の特許をとっている。これに印刷した書画を素地の
 陶磁器に貼付し、裏面より湿気を与えてその紙を剥ぎ取れば模様が転写されるので、それから釉
 薬をかけて焼成する順序であった(春田明)
・西浦円治、名古屋に上絵付工場設立。
・多治見窯町の加藤米次郎、加藤元次郎、太田熊寿、下絵銅版を開発、実用化する。
・下絵洋銅版印刷  妻木 水野俊作、下石 水野錦一郎、駄知 水野儀三郎。
 肥田 渡辺宝一創業
・染付の量産に銅版印刷を使用。
1891 明治二十四年 ・駄知で馬車が使用を始める。
・濃尾大地震。土岐郡193基の登窯のうち188基被害を受ける。損害額39.275円。
・肥田銅版三五皿を製造を始める。
・甘原で千倉発見。
・下石登窯被害26基、201間、8.128円、山崩れ1ヶ所。半壊10戸、全壊5戸。
1893 明治二十六年 ・中村弥九郎、名古屋に製陶工場を作る(名古屋製陶)
・駄知マルス水野喜兵衛横浜で上絵付を研究して帰郷する。

1894 明治二十七年 ・滝呂の松原領右エ門が欧州向けの下絵細密画の手作り薄手コーヒー碗、肉皿、パン皿、ケーキ皿を製造した。
・東濃で硝子の製造始まる(通信用)
・西浦焼尾張坂窯創業。
・土岐郡製陶戸数648戸も、生産額883.302円、
 銅版絵付12銭、型師40銭、ろくろ工25~35銭、画工35銭
1895 明治二十八年 ・上絵具商 加藤米次郎 ヤマヨネ絵具製造所創業。
・岐阜県陶磁器業組合設立。
・加藤小三郎 上絵銅版(赤絵)開発する。特許三五皿 駄知丼
1899 明治三十二年 ・黄呉須の実用化
・加藤助三郎 南アメリカに陶磁器輸出の途開く。
・柴田千右衛門 輪花菊花文皿製作。
1900 明治三十三年 ・飲食器具取締規則公布。陶磁器の上絵の鉛毒問題起きる。
・土岐郡立陶器学校となる。
1901 明治三十四年 ・多治見の小栗国次郎 石版転写印刷による転写上絵技法を開発する。
・美濃陶磁器同業組合設立(陶磁業600 陶器商 40 焼付業60)
1902 明治三十五年 ・名古屋で松村八次郎が石炭窯で初めて焼成する。(硬質磁器)
・籠橋休兵衛 赤井茶壷を中国に輸出する。中央西線 中津川まで開通。
・下石 林清九郎 高圧碍子の製造開始。
1903 明治三十六年 ・多治見の小栗国次郎、森鉄吉らによって陶磁プリント用専門の森村印刷工場が設立される。
・各窯業家は画工がいなくても、これらのプリントを好みに応じて購入し、転写し、絵付が出来る時代となった(三好 一)
1904 明治三十七年 ・土岐郡陶器学校に石炭窯築窯する。
・美濃焼不況となる。
・肥田 肥田桐三郎 平井惣右衛門 石炭窯を焼く。
1905 明治三十八年 ・多治見の船戸政市 銅版印刷用紙の製造を始める。
 北村友一 船戸喜右衛門 北村角次郎も創業。
・釜戸長石を採掘。
1906 明治三十九年 ・美濃焼製造戸数1070戸。
・日々野新七 上海に山竹商店を開く。
1907 明治四十年 ・堀江元一 京都茶碗製造を始める。
1908 明治四十一年 ・土岐郡陶器学校を改称。
・名古屋港 貿易港として開港。
・土岐陶器学校に足踏轆轤2台入れる。
・肥田村 肥田桐三郎 平井惣右衛門石炭窯築く。
1909 明治四十二年 ・土岐津上田 虎沢九郎 石炭窯を築き研究。
・陶磁器大下落。不景気。蛙目採掘業120戸。
1911 明治代十四年 ・中央西線全線開通。陶磁器貨車輸送始まる。
・銅版転写業 多治見本郷7戸。
・駄知鈴蘭部組合設立。
・下石製陶戸数135戸。登窯42基。石炭窯6基。生産額52万円。
1912 明治四十五年 ・駄知 多治見に倒焔式石炭窯設置。
・妻木8基石炭窯出来る。
・肥田 中国向 三寸六分丼 煎茶碗生産開始。
・肥田村で水車を窯業の動力に使う。  










窯元の保存するやきもの展

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激動の昭和  人々の求めに応じ、伝統と改革を両立させ躍進した下石のやきもの
       窯元の保存するやきもの展 平成17年10月1日~18年1月30日開催

轆轤の里全盛期 手ろくろで成形 染付徒弟で育った轆轤師 画工活躍期

全国に陶磁器を普及させ、日本有数の生産地に

1927(昭和2年)  製陶業155戸 登窯69基 石炭窯8基 生産額85万円

・現況 陶磁器大下落 棚ざらえ品廉売日常化
・とりくみ1法による妻木陶磁器工業組合下石支部結成

 ①仕送窯から脱却 ②共販制(価格維持)③製土工場(直営)

  2 生産制限の実施 
  3 物産展出品

・生産品  陶器  磁器

各種燗徳利 箸立 神仏器(花瓶 仏餉具 ローソク立 線香立 
神酒壺 榊立 高杯 など)土瓶 急須 湯呑 花瓶 電気製品
(碍子 ノップ 捻物 碍管 雑碍子)

1936(昭和11年)製陶業159戸、登窯52基、石炭窯23基、生産額119万円
・生産品 陶器 炻器 磁器
・燗徳利 仏器 湯呑 汁注 急須 土瓶 神酒壺 花瓶 箸立 
 蓋物 煙草盆 陶製枕 (和物)スープ皿 肉皿 ライス丼 
  満朝鮮向食器 玩具 輸出向香炉(輸出 ドル域 円域)
  電気用製品 碍子 ノップ 捻物 碍管 雑碍子
・鋳込(割型)生産始まる
  匣鉢工場稼動(匣鉢のリサイクル 西山の窯具工利用)
・燃料の共同購入 燃料入手困難 燃料危機発生
・下石陶磁器工業組合設立
1940(昭和15年)製陶業180戸 従業員1288人 内地物178万円
 輸出6万円 計184万円
  伝統の轆轤の技と土釉薬の研究が認められ皇紀2600年奉祝用斉器製造
  奈良へ  付坩 2200個 平瓶2200個 蓋付高坏2200個 木の葉箸置2200個
宮崎へ 弥生式高坏700個
 奉祝会食饌用徳利 松竹梅徳利4600本 
   白鷹徳利4800本   9社へ 計5700本
1941(昭和16年)内地向食器7割減産決定 ・全国統一公定価格決定
・陶磁器計画生産 ・企業整備はじまる 輸出ほとんどなくなる
1942(昭和17年)企業整備令 全燃料20%配給 代用燃料80%(亜炭)
労働弱体化(老幼婦女子が中心)
1943(昭和18年)企業整備実施 製陶業195戸中64戸廃業 129戸が11社に統合
金属代用品割当生産など生産器種 生産量統制 軍需優先期
①特品種 18万円 化粧品容器 インキ入れ ②甲品種8万円痰壺 線香立
③2品種 3万円 蓋物 灰皿 陶枕 ローソク立 ④丙品種 4万円 箸立
 楊枝挿し 箸立 たまり入れ ⑤花器 花生 花瓶 水筒 

海綿鉄の製造

・組合の倉庫は軍需品の倉庫に。 空襲による燈火管制で焼成に苦労
1945(昭和20年)太平洋戦争終わる
占領政策 物資 燃料不足に対応し窯業再建へ
・企業整備令による会社解散。個人営業にもどる
・減産 生産品統制 空爆等により陶磁器不足、在庫品一掃
・電熱器の生産盛んになる―燃料不足から需要多い
・燃料不足 石炭増産隊を九州に送り、燃料確保に努める
・進駐軍関係陶磁器生産の好景気
・新円に切替 金融の安定へ
・物価統制令公布 生活用陶磁器統制価格公示 インフレ克服に努める
・製土工場廃業
・下石陶磁器工業協同組合設立
・匣鉢工場(移転)釉薬工場 共同倉庫利用操業
1949(昭和24年)国内統制価格撤廃 
独立 自由経済となり下石のやきもの新たなスタート
1951(昭和26年)登窯70基 石炭窯50基 石炭不足から登窯増加
生産品の専門化 多様化、内地、輸出等自由選択操業
1955(昭和30年)製陶戸数157戸 登窯49基 石炭窯54基
神武景気といわれる好況により量産化体制が進んだ
登窯減少、石炭窯が多くなり、燃料が薪から石炭になり重油が導入された
若い労働者が九州より集団で入るようになる
一般食器と共に伝統のやきものにとりくむ者が出現した
躍進 爛熟期 窯体 燃料の多様化 効率化 労働の軽減化へ
1965(昭和40年)製陶戸数185戸 登窯4基 石炭窯58基 重油窯5基
シャトルキルン2基 ガスシャトル8基 トラックキルン4基

電気窯28基

・窯の種類最多 燃料 薪 石炭 重油 ガス 電気を使用
・焼成の窯詰の変化から匣鉢工場の廃業
 荷造り業がなくなり、荷馬車からオート三輪車に変化
・真空土練機 自動轆轤 シャトル化など設備機械の改善により労働の
 軽減化が進む
・伝統的やきもの 工場の新しいやきもの両立化が進む
 社会情勢の変化に対応し新しいやきものの開発 消エネ 消労力 コスト削減へ
・1975(昭和50年) 重油窯45基 シャトル窯14基 電気窯40基
・重油よりガス燃料化が急速に進む
・創意工夫 個性的作品をめざす動き強くなり現代社会需要動向に
 敏感に対応するようになる
・やきものが陶器 炻器 磁器 セラミックと多様化が進む
・日用食器の需要の減少により、生産品種の多様化が進む
下石焼の新たな魅力ある窯元を求めて取り組み始まる

下石窯800年のあゆみ

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"下石窯800年のあゆみ" 展示  平成16年8月8日~11月30日

下石窯創業以前のやきもの
窯洞窯(山茶碗、窖窯)
西山2号窯(山茶碗、古瀬戸、窖窯)
石田窯(陶器、登窯)
桜ヶ根(陶器、炻器、磁器、大窯登窯)
燗徳利(染付、摺絵、銅版、磁器、登窯)

下石町の窯業はいつどこで始まり、どのようにあゆんできたのか
この課題に取り組み下石窯業史を解明する展示を土岐市教育委員会、印版館、下石町の方々他さまざまのご協力、ご支援をいただき、資料提供を受け冊子を作り、展示開催しました。

下石の窯のすべてではありませんが、発掘された窯、文献、資料が保存されている窯の製品を展示しました。
美濃窯1300年の歴史に対して、下石町は創業が遅れています。須恵器と白瓷を焼成した窯が発見されておりません。これは歴史と地理条件によるものと思われます。
鎌倉時代に始まる山茶碗、古瀬戸の窖窯、桃山陶の大窯、織部から、御深井、炻器、磁器を焼成した登り窯が、下石の窯です。
窯捌では鎌倉期の窯洞窯、西山2号線、室町期の石田窯、江戸中期の清水窯のやきものにより、下石窯800年のあゆみと窯の発見されていないやきものをご覧いただきたいという思いの展示でした。

≪以降、登り窯について追記≫

登り窯 最多は昭和25年頃
(窯体、燃料の多種多様時代)

下石の登り窯は江戸時代初期から昭和48年まで稼働した窯体である。
規模は江戸時代は小型であったが、明治30年頃から大型化した。(窯間の奥行より横に広がる胴木の間より上りの間に徐々に左右に広がっている。昭和にさらに奥行と横幅が広がって大型化した。窯の奥行、横幅は棚板の大きさで決められた。
下石の登り窯は棚板で棚を作り、天地の高さと調整した窯に特徴がある。
丈の違う焼物を焼成するよう工夫されている。
(登り窯の棚板焼成は下石、高田、下石焼物の種類からである。焼成品種の多いこと大きさがまちまちから)
登り窯は近世と近代で大きく機能が変化した。陶器窯から磁器窯へ、酸化焼成から還元焼成へ。燃料は江戸時代は町内だけでは確保できなくて、曽木など周辺から買い入れしていた。昭和13年頃、燃料不足となり登り窯が焼成できなくなり、下石に移住したよそ者の力により公岳山麓から大量の森林が下石駅におろされて危機を脱した。
戦時中は燃料は配給であったが戦後まもなく、石炭不足で下石より採掘に九州に人を送ったが入荷が少なく、石炭窯から薪の登り窯に転じたため昭和35年に登り窯が多くなった。
その後減少し、昭和48年阿庄の登り窯稼働が最後となり登り窯から 窯に変化し、石炭窯、重油窯、ガス窯、電気窯へ変化した。
昭和の年代は窯体も燃料もすべてを使用した時期である。窯業の近代化が急激に進んだ

下石窯800年
下石町誌 資料編6
ろくろの里
土岐市地誌  より

尾張犬山焼、美濃下石焼 徳利展

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尾張犬山焼、美濃下石焼 徳利展として平成18年8月1日~11月26日開催  
 
可児市塩河343 まちかど美術館・博物館「犬山焼徳利盃館」土田晃司氏のご厚意により燗徳利の日本一を誇る生産地、下石徳利と犬山焼の徳利の比較展示を計画しました

 犬山焼(1800点の内124点)、下石焼(3000点の内113点)とも館蔵品の一部です。製造の時代、やきものの種類(陶器・炻器・磁器)釉薬、絵付けなど原料を含む条件が異なりますので細、厳密な比較はできません。
    
徳利について

①徳利とは

文献等によると、徳利は口がすぼみ、胴の膨らんだ陶磁器の容器のことです。呼称は「とくり」で「得利・徳裏」など様々な文字でしたが、現在は「徳利」の文字となり「とっくり」となっています。徳利の生産が開始された頃は、酒・醤油・酢・油など水溶液の貯蔵や運搬の容器でしたが、種などの貯蔵など用途は多様となっていたようです。江戸時代の元禄期に清酒が造られるようになり、燗酒を飲むようになると燗徳利が生まれました。神の祭祀の供物の酒のいれものが平子から御神酒徳利になるなど時代と共に変化しています。

 祭祀用、御神酒徳利(冷酒)、燗徳利(燗酒)、酒屋が酒の計り売りに貸し出した運搬、保存などの通い徳利(冷酒)が近代の徳利の用途でした。昭和の戦争中に酒の計り売りが禁止されたので、今日では燗徳利が主で、酒専業の容器となっています                                     

②徳利の産地

 徳利が日常生活の道具として、一般庶民も使用するようになり、各地の窯で生産されるようになりました。生産地を冠に徳利が生まれました。


     下石徳利(土岐市下石町) 高田徳利(多治見市高田町小名田町)
     久尻徳利(土岐市泉町)  犬山徳利(犬山市)
     尾呂徳利(瀬戸市)    備前徳利(備前市)
②釉薬、絵付、辞時代等からの名称 
     鉄釉、灰釉流し徳利
     御深井釉、錆釉掛け分け摺絵徳利
     灰釉流し徳利
     飴釉徳利
     錆釉、灰釉掛け分け瓢箪形徳利
     錆釉、灰釉流し瓢箪形徳利
     漆黒釉灰釉流し瓢箪形鎧徳利
     漆黒釉瓢箪形徳利
     漆黒釉、灰釉流し瓢箪形徳利
     漆黒釉、灰釉流し徳利
     漆黒釉徳利
     錆釉布袋徳利
     錆釉徳利
     錆釉 大黒徳利
     灰釉、胴緑釉流し徳利
     灰釉徳利
     灰釉染付徳利
     炻器染付徳利
磁器の徳利は染付、摺絵、銅版、釉下彩・盛上・上絵(赤絵・色絵・銅版・金)などがあります。 (瑞浪陶磁資料館、下石館蔵品より)

④用途・形状

   肩張徳利    銅版徳利  尾張徳利  寸胴徳利  三角徳利

   四角徳利    瓢箪徳利  えへん徳利  頸徳利

   独楽徳利    蝋燭徳利  鳶口徳利  傘徳利   柑子口徳利

   浮き徳利    鳶徳利   鳩徳利   鴨徳利   芋徳利

   らっきょう徳利 蕉徳利   船徳利   へそ徳利  ひげ徳利

   蓋付徳利    油徳利   お預け徳利  貧乏徳利  通い徳利

錆釉とは
鉄釉の一種である。江戸時代後期(1800年以降)に焼かれた錆釉陶器に始まる。
安土桃山期の天目、瀬戸黒、江戸中期(1670年頃)、鉄釉を使って茶褐色や黄褐色をした光沢のよい焼物が焼成され、飴釉陶器と呼ばれる(飴釉碗など)
1750年頃、黒色をした焼物を漆黒釉陶器と呼び、この陶器(碗、皿、小鉢、拳骨茶碗など)
生産された。
灰釉と鉄釉の塗り分けされた焼物が流行した。これを鎧手と呼んだ(鎧手徳利など)
錆釉陶器は備前の陶器を写して美濃でやき始めたもの。光沢はなく、釉調は他の鉄釉より地味である。
天目、瀬戸黒、飴釉、漆黒釉、鎧手、錆釉は鉄に長石、紅柄、鬼板、陶土、木灰、カオリン、土灰、藁灰など混入して製造された釉薬で、その混入の種類と量などの違いにより、また焼成の焔(ほのお)酸化焼成、還元焼成によって、さまざまな釉調を生じたものである。
美濃の鉄錆釉の発色は、赤土を使ったのではないか、近くに大量にあり、採掘用意で簡単であったが、他の釉調にくらべ雑である感はある。
一面備前焼らしく、素朴な感じの陶器でもある

瑞浪陶磁資料館 美濃のやきもの展示解説 平成8年より



 尾張 犬山焼
国宝犬山城のある犬山市今井字宮ヶ原に開窯しました。
開窯期は元禄年間(1688~1703)と宝暦年間(1751~1761)の二説がありますが、製品から見ると宝暦年間と言われています。陶器で日用品の生産が主でありましたが、安永年間(1772~1781)頃廃業しました。
文化7年(1810)、犬山城下丸山の知に開窯した丸山窯は、初期に御庭焼と称して、茶器類を焼きましたが、その後京都粟田口の陶工を招請し、粟田風の陶器を焼きました。
文政9年(1826)瀬戸系技術を導入し、磁器の製造を始めました。陶器窯と磁器窯が出現しました。
天保初年(1830~1843)に、犬山城主成瀬正寿が窯業保護奨励して、名古屋市守山区志段味から陶工を招き、また名古屋から陶画工道平を招き、窯業振興に務めました。天保4年(1833)赤絵付が始まり天保6年(1835)道平の参加により彼を中心に呉須赤絵、道八風雲錦手が焼成されるようになりました。天保後半犬山焼は最盛期となり、京都尾形乾山の風を倣い、俗に犬山乾山の名高くなりました。
嘉永年間(1848~1853)の始め、瀬戸塐僊堂川本治兵衛も参加して、染付磁器を焼成しました。明治6年(1873)廃業致しました。
その後、尾崎作十郎らが継承し、曲折を経たが今日まで続いています。
犬山焼は、赤絵、色絵(雲錦手)染付、銹釉、緑釉流を基本に、色による華やかな美を求めた重厚で親しみやすい絵付けをした焼物が伝統を継承してきました。
徳利に絵付けしたデザインの多様さ、形状を変化させながら歩み続けた職人たちの歩みを作品を通して見ていただきたいと思います。                 
犬山焼年表
inuyama.jpg

犬山焼徳利盃館ホームページへ 
 
美濃下石焼
 創業800年と古い歴史がある窯業地で、山茶碗の生産に始まり、その後たびたびやきものを変え、窯体構造を変えながら綿々と創業してきました。近世初頭から、各種の徳利を生産してきましたが、今回の展示の最古は江戸中期、灰釉染付徳利でありますやきものが変われば、窯も変わりました。新製品、新窯に取り組むことは努力と苦労が多かったと思いますが、先人は「美濃焼の窯体構造」(多治見市、土岐市、瑞浪市、瀬戸市の発掘調査報告書、春日井市シンポジウム資料等より編集)に記されたように、多種の窯と共にやきものづくりに取り組んでまいりました下石のやきものは、幕末に新製(炻器)そして、磁器が導入され、中世以来求めてきました白いやきもの生産に成功しました。「染付」として需要が多くなり、消費者の求めるやきものを供給できる喜びは大きかったと思います。陶器から磁器生産に急速に転向し、生産量は急激に増加しました。下石窯業史の一番大きな変化でした。原料が土(粘土)から石質原料(石粉)になり、窯も磁器の窯に構造や機能を高めました。陶土に恵まれて手轆轤による成形技術が伝統的に継承され「ろくろの里」と呼ばれるほどでした。手轆轤しかできない徳利・壷・急須・土瓶・花瓶・箸立・仏器などを主に生産してきました。各村のは産業近代化が進められ石膏型、機械轆轤など窯業機械が導入されましたが、機械化が急速に進まなくて、手轆轤成形から、鋳込成形が主流になったのは昭和だと言われます。手轆轤工と共に画工も育成されて染付による絵付が主流でした。
下石の地形など自然環境から登窯による棚詰焼成が高田と共に続けられ、やきものの高さ、大きさのまちまちの焼成に適した焼成方法を生み出し、登り窯が多く、登り窯焼成の最後の町となりました。明治中期に妻木の水野勘兵衛が薄手な磁器のコーヒー碗の焼成に成功し、また山呉須からコバルトに絵付の原料が変わり、登り窯も巨大化し、生産が増加となりました。明治以降、宴会の流行、燗をつけて飲む習慣の普及と共に燗徳利の需要が増加しました。下石のやきものが使う人の要求を受け大きく伸びました。               
生産量が増加と戦争などにより需要にかげりが出て不況にたびたびなり、安定して操業をめざした同業組合の専制権設定により下石は徳利の専制権を得た業者が多くなり、一大生産地となりました。明治32年9月の多治見陶磁器商業組合の「荷造賃金改正早見一覧表」によるとした下石は燗徳利の種類・量とも下石が全国有数となりました。徳利の形はさまざまで、燗徳利の基本形は別図のとおりです。機能も工夫されたものが出現しています。絵付は染付、摺絵、銅版、上絵などがありますが、呉須による染付けが主で、清潔で機能を重視し、人にやさしい徳利を今日まで生産してまいりました。
 
拡大はコチラ
窯元館犬山焼s

kantokkurikihon.jpg
徳利色々

doubankiku.jpg willowpat.jpg
    銅版菊花鳶口燗三合徳利                銅版ウイローラッパー型一合 徳利
     下石 明治前期 16×4.0×6.7              下石  昭和 14.0×3.8×4.5
      5.2dl すはま底(無高台)                     1dl
suisen.jpg tikusen.jpg
    染付水仙図ラッパ型燗一合徳利               白黄竹竹泉燗一合徳利
    下石 昭和 11.8×2.3×4.1 1.8dl             下石 昭和 13.0×4.2×5.6