下石町、やきものの歴史

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このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

下石の陶祖

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下石の陶祖について  
            以下「陶祖祭」によせて桃井先生に寄稿していただいたものです
 
陶祖を顕彰しようとする動きは明治時代から始まりました。
「美濃陶祖加藤與三兵衛尉景光并下石陶祖加藤庄三郎氏家碑」

正二位勲一等子爵  榎本武揚 篆額 

明治35年1月、仙台、岡干 仭 撰文され大正9年9月に字心庵 藤井弘恭書の美濃下石陶祖碑文が残されています。現在建立されている陶祖碑は、土岐郡長を務めた水谷弓夫が撰文并書を石に刻しました。
この碑は大正14年4月清水八剣神社に建立され、昭和27年4月15日現在地に再建しました。

永保の頃(1081~)加賀国の林総左衛門吉兼という人が下石に移住したのが林氏の始めと言われ、平安時代からの旧家です。下石に林が移住後、鎌時代に下石西山窯ヶ洞に山茶花窯(窖窯)が稼動しています。これが下石最初の窯です。室町時代に半地下式に窖窯の古瀬戸の窯が稼動して灰釉、鉄釉を施釉した陶業地となりました。古瀬戸窯は、多治見市境に近く妻木、下石、土岐口、五斗蒔の五窯と、駄知有古の計六窯が、確認されていますが、下石林氏の関連はわかりません。
地上窯の大窯期に入り、窯業地は西山から桜ヶ根地に移動しました。大窯を構築する条件に恵まれていたからだと思います。太平窯の開祖景豊の十男清大夫長はまもなく笠原に移住してしまったからです。

 元和(1615~23)初期に林清兵衛の娘と結婚した定林寺の加藤庄三郎家は、加藤家世襲の窯株7株中6株を持参して下石町に移住して桜ヶ根の西方にて開窯して下石陶業近世の始祖といわれるようになりました。
 桃山陶の流れを継承するすぐれたやきものを生産しています。桜ヶ根の最下層から定林寺窯を類似した陶器が出土して定林寺窯と深いかかわりを示しています。窯の上に次々に窯を構築して創業してきましたので陶祖の窯の確認はできません。すぐれた技をもち、素晴らしいやきものを生み出したことにより、下石窯業の発展に大きく寄与したことから陶祖として尊崇してきました。林氏も陶業の支えに尽力したと思われます。
 庄三郎氏家持参の窯株は寛政8年(1796)の美濃窯差し止め願書提出後、下石窯業の大きな力となり、発展になりました。 美濃焼の歴史によると、天宝元年(1830)三河の八草村生まれの加藤利兵衛なるものが磁器創製を指導しました。利兵衛は瀬戸で陶技を習得したのち下石に来て庄三郎氏家四世佐兵治の弟兵助より三代目の加藤利兵衛方に入婿し、利兵衛を襲名し、その四代目となったもので、窯は瀬戸の丸窯(磁器登窯)を用いたというが、詳らかではないです。当時の磁器は二合肩張徳利、二合鳶口徳利、切立花筒、茶碗、土瓶等であります。新製と呼ばれるやきものが隆盛したのは、利兵衛が磁器導入によるものとして磁祖として尊崇してきました。江戸末の磁器が桜ヶ根から出土しています。
「丸窯」と呼ぶ窯が桜ヶ根の大正の絵図に描かれていますし、明治の初めに急速に発展した下石窯業は、利兵衛の功が大なるものがあります。陶器、磁器の技を持って移住した庄三郎利兵衛と窯業を志した先人たちの尽力により、今日あることに感謝し、益々発展を祈念して、毎年4月に陶祖祭を続けています。
陶祖碑文は下記にあげてあります

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