下石町、やきものの歴史

下石町、やきものの歴史の

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このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

濃尾大震災 下石の製陶業

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濃尾大震災

明治24年(1891) 午前8時36分 発生
下石も甚大な被害を受けた。当時下石の戸数500戸ほどある。
被害状況
1 全壊住居  11戸  半壊住居 235戸 二分以上損害受けた住居 427戸
 損害を受けた戸数4327戸(全戸数の85%)
損害総額 51.405円
 学校全壊 1棟  半壊 2棟  
 寺半壊  1棟

2. 道路損害 1200円 橋梁損害 450円  溜池損害7ヶ所 120円
  堤防  44町2間(4800m) 250円 損害合計 2002円
  使用を25年3月までに復旧完了した。
  山前1ヶ所  2反5畝(2489.9㎡)

3.耕地傾斜 2町2反2歩
 耕地陥落 4反9畝2歩
   復旧遅れ元に戻すまでには時間がかかった

4. 製陶業の損害高  8.128円
  損害窯数 26(総窯数28) ( 窯は全窯株の98%)
   明治25年度までに復旧させた

道路のようす
明治20年代は、主要道路が山地から低地に道が移動した。
駄知から下石・多治見の道は山神、清水、尾張屋辻から工業組合の北を通り、阿庄の中央を阿庄口に進み、石拾峠をこえて多治見下沢に通じる道につけかわり、馬車が通れる道となった。
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景気がよくなるのは明治35年中央線中津川まで開通以後

明治23年 不景気  陶磁器価格下落 米価等穀物価格高騰
明治25年 田畑不作
明治26年 大飢饉
明治27年 日清戦争起こる 雨乞い 農産物不作 米価年々高騰
明治28年 日照り 田植おくれる
明治29年 台風、大水害
明治30年 雨乞い
明治31年 妻木川大洪水

登り窯の火が止まるか 下石の製陶業
未曾有の燃料不足解決へ
◎昭和12年  
石炭の入手一段と困難、応召により零細企業の圧迫強まる
7月7日 日華事変起こる
9月臨時資金調整法 輸出入品等臨時措置法、軍需工業動員適用法の戦時統制三法公布
同年7月29日自動車、トラック召集
◎昭和13年 
国家総動員法公布 町火管制規制実施
生産量割当数量2~3割減産断行 転業者26名、休業44名 職工失業者428名
商工省石炭配給統制規制公布
切符制実施 日陶連で石炭配給統制
◎昭和14年
米穀配給統制法公布 国民徴用令公布
価格等統制令公布 製陶労働組合解散
生産量多くなる
製陶所 軍需産業転出者多く、労働力不足となる
石炭の配給制度の実施 薪、燃料不足 陶磁器の価格統制一段と強化


戦時体制で労働力不足となり、鉄道輸送の制約、松材の生産地の問題などの社会のようすから、下石は未曾有の燃料不足となる
下石陶磁器工業組合となったばかりで、燃料確保は困難であった。
燃料供給地を知っている職員に、燃料探しを依頼した。長野県諏訪郡富士見町に松材を求めに出かけて、八ツ岳山麓の満蒙開拓団の修練農場造成地で伐採した赤松を、登窯の燃料として送ってもらう約束を取り付けた。統制経済で厳しい規制の中、県木の軍需産業以外の産業に出荷するのには課題があったが、許可を受け入れたのは工組職員からの願いを受け止めて尽力された長野県人の友情の厚さであった。
登り窯の薪の長さは尺5寸であるが尺2寸でとの願いも聞き入れてくれ36000束が、昭和15年下石駅に着いた。皆が驚く快挙であった。
明治以来、下石は、多くの転入者を受け入れ、それらの人々の力を受けて、数々の話題を解決し発展してきた。これもそれであった。
土岐郡騒動、米騒動を発生させたこととも深くかかわる面もある町でもある。
  「設立以前の窯仲間」後半部分とも重複します

下石町誌 資料編 全6巻 桃井勝著 より