下石町、やきものの歴史

下石町、やきものの歴史の

ページへようこそ

このサイトは、郷土歴史研究家、桃井勝氏の著述他工組出版物の概要をまとめたページです。

いずれの事業や展示も桃井先生他、下石町の皆さまのご尽力により開催、発行されたものです。

美濃下石焼 クラフトデザイン展

Posted by kokumi on   0 trackback

美濃下石焼 クラフトデザイン展 前期 平成19年8月21日~10月14日
                     後期 平成19年10月16日~11月30日
                     この企画をもって二階展示は終了しました。
                     本展には加藤康弘氏、安藤英夫氏、加藤南氏、安江陶器様
                     安藤光一氏、土岐市陶磁器試験場の方々にご支援を頂きました。
実用に適する生活工芸を志向する動き

明治初期、興業意見 県知事等から美濃焼改善について指摘された。美濃は改善をめざして努力し発展してきた。それは下石人口の推移にみられるように急速な人口増となり、
業者数、陶磁器従業員数を増加させ生産量は日本一となり、陶磁器普及に大きく貢献してきた。
 昭和の最後の動きは実用に適する生活工芸品を生産を志向する動きが高まった。瑞浪陶磁資料館の企画展「美濃陶磁の意匠」のクラフトデザインである。これを推進した人々がめざした新しきやきものの条件は・・・

  1. 自然素材を重視する
  2. 土着性 風土性に根ざしたもの
  3. 手仕事を主体とする
  4. 一定の均質性をもち反復生産の可能のもの優れた機能性と同時に芸術性を備えて生活に温かみを与えるもの

下石の風土性を生かし、足場を確かにした運動で下石の特性を生かし、人間らしい生活実現に寄与でるやきもの作りをめざし、下石焼の活性化をめざしたのは、下石陶磁器工業協同組合が指導者として招聘した日根野作三(昭和23年)安藤知山(昭和23年)沢田米三(昭和26年)の三氏の活動に始まる
 安藤知山は昭和25年、下石陶磁器工業協同組合の理事長に就任し、下石陶磁器工業協同組合青年部を結成し、日根野作三氏、沢田米三氏を講師に迎え若者の指導に当たらせ、若者を育成し新しいやきもの作りを実践しようとした。
 求めるやきものの実現のために私財を投じて下石小谷陶磁器研究所を設立し、新しいやきもの作りに日夜研鑽させた。
昭和33年、土岐市立陶磁器試験場が駄知町有古に竣工して安藤知山氏は初代場長に就任し小谷研究所の役割は終えた。(平成19年8月小谷陶磁器研究所跡は完全になくなった)
小谷陶磁器研究所で学んだ人々が残した作品備品と安藤知治氏期の知山窯の作品により新しきやきもの作りに挑戦し下石焼の活性化をめざした姿を展示した。

展示目録
小谷陶磁器研究所製 陶磁器試験場セラテクノ土岐蔵のものと
知山窯 個人蔵のものがあります。

拡大はコチラ

クラフト1から29s

拡大はコチラ

クラフト30から52s

拡大はコチラ

クラフト53から76s

平成18年8月18日~10月29日まで瑞浪陶磁資料館で特別展が開催され、それに関係して、当窯元館に於いても、「美濃下石焼 クラフトデザイン展」を開催しました。
以下、瑞浪陶磁資料館編集の知山略年譜です。

andoutizan.jpg

 略年譜拡大はこちら

以下続き 瑞浪陶磁資料館 平成18年8月18日~10月29日 
     「美濃陶磁の意匠」図録より転載

昭和23年3月
下石陶磁器工業協同組合(以下、下石陶工組)は、「陶画研究会」を結成し、安藤知山に技術指導員を委嘱。日根野作三をも招き、下石陶磁産品の品質、デザイン改良に向けた指導体制を作る。 1弗550円、輸出業績絶頂期
昭和24年4月
1弗550円(複数為替レート)が1弗360円(単一為替レート)となり、35%切上による受注減と、スープ皿の値下がりで業者の投げ売りが激化し、輸出向け食器の滞貨は3億5千万以上となり、極度の不況が到来する。
昭和25年
輸出向業者の国内向生産への転向で、滞貨品の投売りにより価格の低落等で、業界は下石地区が50%、駄知地区に至っては20~30%の操業率に落込み、失業者対策のためにに多治見職業安定所は恵那と駄知に臨時出張所を設ける程であった。
同年5月の総会にて安藤知山、下石陶工組理事長就任、昭和26年まで勤める。日根野作三、図案指導要員の正式委嘱。工組の依頼を受け、高能率の新型匣鉢考案。同年6月朝鮮動乱勃発に始まる特需景気で、世間一般は沸き立ったが、美濃の窯業界は特需インフレに見舞われ、原材料。燃料の高騰に製品売価の値上げが追い付かず低迷状態にあった。特にスープ皿業者が行う「投売り」は、国内市場を冷やし、陶磁器生産者へ深刻な悪影響を与えた。
昭和26年
知山は、工業組合理事長という組織のトップに立ってみると、輸出業界の変転の激しさ、国内市場の厳しさ、地域産業の現状と合わせ、業界の将来像がさらによく見える様になる。日根野、沢田、両氏の冷静な第三者の立場からの見方と一致したのが「試験機関を持たない様な産業は成長しない」という考え方であった。
 この考え方の根本には、僅かな社会的要因で浮沈を繰返す産業基盤の弱さがあった。そこで真面目に働く人達の苦しみを目の当たりにして、この問題に対応するには「焼物・窯業に対する啓蒙施設」を作り、考え方、方向性、技術面の指導による人材の育成と、それに基づく試験と研究、商品開発の場を作り、世の中の変化を先取りすることにあった。
 業界、地域産業、そして自分の企業の将来に夢を託して、下石町小谷の地に「小谷陶磁器研究所」の建設を開始。
 下石地区では登窯66基、石炭窯52基で、国内向徳利、急須、土瓶、仏器、袋物等を、輸出用では、コーヒー碗皿、スープ皿、玩具を生産していたが、そのほとんどが還元焼成「磁器」の製品であった。そして、両社、卸問屋からの受注生産というのが流通形態であった。
昭和27年
朝鮮動乱に沸いた特需景気も、一般経済に不況の兆候が現れるや、美濃の陶業界は消費景気、投資景気を味わうことなく景況不況に陥り、スープ皿業者は生産過剰による滞貨山積みのため資金繰りは逼迫し、操業不能となる業者が続出した。
 戦後最大の危機に直面することになる。
安藤知山の私設の、陶磁器に関する小谷陶磁器研究所(平屋建、裏中二階)
昭和28年
スープ皿の滞貨3万ケース超となり、岐阜県調整組合は生産中止を断行。
下石陶工組は急遽不景気対策委員会を組織し対応策の検討に入り、休日増、操短等の生産調整の指示を出すが、金融事情は急速に悪化してゆく。組合はこうした時勢に対し、様々な事業を以て立ち向かっている。そんな中に、下石生産品の改善振興策の一環として日根野作三の「陶磁器デザイン研究会」が9回実施されている。受講生は最初は多数であったが、一人減り、二人減りで、最後まで熱心に受講を続けたのは、中島正雄氏のみであったという。
業界騒然としたなかで、「小谷陶磁器研究所」閉所。その存在は地域企業の全てが注目する所となる。
第一期研究生には、安藤光一、伊藤真司、長田豊七、加藤嘉明、四方國夫、羽柴良一の6名に始まり、二期生の加藤摑也以下、三、四期生と続き伊藤慶二等の陶芸作家を輩出している。
土は地元産にこだわり、オリジナリティを意識した創作活動から生み出された作品には、粉引、伊羅保の釉薬を多用し、土物(陶器質)の特性を引き出した実用の器であったが、工芸品としての品位を十分に感じさせるものが多かった。
 当時、焼物といえば還元焼成の磁器質ばかりの業界に、酸化焼成の土物を主体とした小谷陶磁器研究所の存在がどのように受けとめられたのであろうか。
 安易な、規格品の大量受注、大量販売といった量産体制がもたらす輸出業界の危険性は戦前、戦後を通じて、スープ皿問題等で明らかであった。デザイン、注文、単価まで全て商社、卸、問屋まかせの国内の流通形態に依存している地域企業の実態に対して、小谷陶磁器研究所の方針は全く異なっていた。これからの陶業界には、クラフトデザインがいかに重要なものになってくるのか、良いものは必ず受け入れられる。東洋陶磁の確かな歴史観に根ざす「土物」へのこだわりは、研究生の一人、一人にまで徹底した。
 昭和20年代美濃焼業界では、陶芸作家という地位、職名は無く、これで生計を立てる等は、思いもよらぬことであった。現在、小谷の卒業生のほとんどが、作家として活躍されているのを目の当たりにすると、知山、日根野両氏の先見性の凄さ、小谷陶磁器研究所の存在の重さが強く感じられる。
 修業年限2年制の同研究所は、昭和28年より昭和31年の四期生まで続いた。この動向が後年、土岐市立陶磁器試験場設立となって、知山は初代場長として迎えられる。


下石焼の歩みと特徴
 美濃下石焼は800年の歴史がある。窖窯では山茶碗を焼き始め古瀬戸で施釉陶を焼き、大窯で桃山陶の黄瀬戸 瀬戸黒 志野 銅線釉など登窯で織部など世界に誇る優良品を焼きだしてきた。江戸期には日常食器が多くなり多種多様なやきものを生産してきた。
 幕末には新製が導入され、陶器や炻器、さらに磁器のやきものの種類を増やしてきた。この間やきものが変化すると、窯体も変化させている。(成形は手ろくろによる成形、登窯による棚詰焼成が特徴)登窯も陶器を焼く本郷窯と磁器を焼く丸窯で売れゆきのよい染付(磁器)に転ずる者が多くなった

陶器生産から磁器生産へ
磁器の生産地九州におくれること200年、先進地に近づける努力をしてきたが、日が浅く製品としては劣るものであった。

明治11年 山崎県令(現在知事)
「従来の粗製廉価の飲食器だけでは、成功品を求める海外輸出には応対できなくなる。今後廉価大衆的なやきものと同時に、努めて精良品を製作しなければならない。その為には窯の改良、機械の導入についてもその実物を認め、積極的に取り入れていくことが肝要である。」

明治18年 陶工伝統誌
 美濃焼の製する磁器は皆 日用食器に止まり、尾張・備前の諸窯の如き巨皿・大瓶を出すことなく、また 美術上の製品なしとす。
興業意見 6つの改善点を指摘している

美濃窯のとりくみ
これらの指摘について次のようにした。
1.摺絵型紙の職人を白子より招き、技術・精製の質を高めた。
2.江戸時代に摺絵・銅版を導入したが成功しなかったのは、山呉須(紺青)がよくなかった。
 明治14年頃、紺青掘りをやめ、コバルトを使用した。
3.磁器の原料 陶石のよいものがなかった。美濃は蛙目の弱粉から強粉に水野勘兵衛 磁 器土づくりに成功 薄手の磁器食器ができるようになった。
4.原料土の組合せにより杯土をつくり、さまざまなやきもの作りをした。
5.九州から導入した登窯を改良し、陶器焼成の登窯(本郷窯)磁器焼成の登窯(丸窯)築窯
 明治20年代 巨大化 量産体制できる。
6.水車を動力に千本枠搗による石粉はたき(動力革命)
7.機械ろくろの導入 成形具の発明(林鳶次郎)
8.窯の改良(青木達四郎)
9.中国向 赤どんぶり(篭橋休兵衛)
10.絵付技術の研修 染付 銅版 吹きイッチン 釉下彩など多様化
11.銅版 上絵技術の向上
12.鉄道による陶磁器輸送 全国へ販路を広める
13.伝統工芸 日展を目指して陶芸家の研究技術の高まり
14.杯土に恵まれなかった窯業地は収益をあげるために機械化、窯の焼成回数を増加させ るなど工場生産による大量生産とする。分業化が進む。

美濃窯取り組みの成果と課題
1.明治9年(1876)生産高の99パーセントが磁器となり、生産額98.6パーセントとなる
 (急激に磁器に転ずる)
2.明治12年(1879)シドニーバンコク博覧会に下石 笠原 多治見から331点出品
3.下石の職業別人口 明治14年(1881)46%を超える。急激に工業化が進む
4.下石の燗徳利 市之倉 盃 滝呂、妻木 小皿 笠原、猿爪の飯茶碗
 品種分業化
5.日本一の生産地となり、廉価の日用食器を全国に売り出し、全国民にやきものが普及した。大正末年のことで、 食文化上美濃焼の功績である。
6.好不況の波が大きく、明治元年、9年、14年に不景気となり下石の土地の3分の1は池田村、妻木村の不在地主の 所有になる。
7.明治19年 陶磁器工業組合の設立、加入。組合による生産調整 景気安定化する。
8.窯業技術 施設 道具 原材料 経営の改善 品質の向上 経営の合理化に努力した。
9.土岐郡陶器学校(現多治見工業高校)の設立
10.大正7年 下石の米購入者は全戸数の91% 米価高騰に苦しみ米騒動が発生
11.重要輸出品工業組合施行 画鉢のプレス成形(大正10年)
陶土粉砕用トロンミル普及 電動機普及
12.昭和14年 岐工連に下石陶磁器工業組合加入する
13.戦争に入り苦難が続いたが平和となり、伝統工芸 一般食器とも品質向上目指して取り組んできた。

美濃下石焼き クラフトデザイン展
明治に提示された課題の内、残されていた課題で実用に適する生活工芸を志向し、下石焼の活性化を目指した取り組みは、明治以来の懸案で最大に評価される取り組みでした。
下石を訪れる人々に「美濃焼ってなに」と言われないよう、美濃焼の特徴、歴史、製品にかける生産者の思いを伝えたいという願いの展示でした。


平成16年4月より窯元館二階にての展示は、中途、町かど博物館として認定され、展示を続けてまいりましたが、平成19年12月をもって終了となりました。