下石陶磁器工業協同組合 玄関

下石窯元館 外観

大会議室 現在の青年部室と初代理事長水野錦一郎胸像 下石陶祖碑はこちら
陶祖祭 陶祖記念碑 毎年4月陶祖の遺徳を崇め、神事式典を行います。
右は裏山陶祖墓地 裏山の子孫の方々が守っています。 詳細はこちら(隆月窯さんサイト)

窯元館玄関向かって右 安藤知山像 略年譜

窯元館玄関向かって左

組合前倉庫
組合倉庫釉薬工場跡 トロンミルと桶
窯元館2階に展示してある陶製虎です。
陶都信用農業協同組合さんから若宮会館閉鎖に伴い譲渡していただきました。
この虎は昭和8年、皇太子継宮明仁親王ご誕生記念のため、下石町工芸家加藤伊三郎氏が下石信用組合、安藤曽傳治組合長の依嘱を受け製作されました。
当初陶都信用農協下石支店(現在の消防中核拠点)に下石信用組合があり、そこの二階に据え付けられ、若宮会館に移っていたものです。お立ち寄りの際は是非ご高覧ください。
窯元館二階展示の狛犬です
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裏山にある とっくり村看板 とっくり村 登り窯の写真はこちら
組合駐車場入口には大徳利がお出迎えしています。

とっくりとっくんというキャラクターも出来ました。
町内各所に点在しています。
窯元館前のとっくん 組合玄関前のとっくん

とっくりとっくんFacebook
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下石の陶祖について
以下「陶祖祭」によせて桃井先生に寄稿していただいたものです
陶祖を顕彰しようとする動きは明治時代から始まりました。
「美濃陶祖加藤與三兵衛尉景光并下石陶祖加藤庄三郎氏家碑」
正二位勲一等子爵 榎本武揚 篆額
明治35年1月、仙台、岡干 仭 撰文され大正9年9月に字心庵 藤井弘恭書の美濃下石陶祖碑文が残されています。現在建立されている陶祖碑は、土岐郡長を務めた水谷弓夫が撰文并書を石に刻しました。
この碑は大正14年4月清水八剣神社に建立され、昭和27年4月15日現在地に再建しました。
永保の頃(1081~)加賀国の林総左衛門吉兼という人が下石に移住したのが林氏の始めと言われ、平安時代からの旧家です。下石に林が移住後、鎌時代に下石西山窯ヶ洞に山茶花窯(窖窯)が稼動しています。これが下石最初の窯です。室町時代に半地下式に窖窯の古瀬戸の窯が稼動して灰釉、鉄釉を施釉した陶業地となりました。古瀬戸窯は、多治見市境に近く妻木、下石、土岐口、五斗蒔の五窯と、駄知有古の計六窯が、確認されていますが、下石林氏の関連はわかりません。
地上窯の大窯期に入り、窯業地は西山から桜ヶ根地に移動しました。大窯を構築する条件に恵まれていたからだと思います。太平窯の開祖景豊の十男清大夫長はまもなく笠原に移住してしまったからです。
元和(1615~23)初期に林清兵衛の娘と結婚した定林寺の加藤庄三郎家は、加藤家世襲の窯株7株中6株を持参して下石町に移住して桜ヶ根の西方にて開窯して下石陶業近世の始祖といわれるようになりました。
桃山陶の流れを継承するすぐれたやきものを生産しています。桜ヶ根の最下層から定林寺窯を類似した陶器が出土して定林寺窯と深いかかわりを示しています。窯の上に次々に窯を構築して創業してきましたので陶祖の窯の確認はできません。すぐれた技をもち、素晴らしいやきものを生み出したことにより、下石窯業の発展に大きく寄与したことから陶祖として尊崇してきました。林氏も陶業の支えに尽力したと思われます。
庄三郎氏家持参の窯株は寛政8年(1796)の美濃窯差し止め願書提出後、下石窯業の大きな力となり、発展になりました。 美濃焼の歴史によると、天宝元年(1830)三河の八草村生まれの加藤利兵衛なるものが磁器創製を指導しました。利兵衛は瀬戸で陶技を習得したのち下石に来て庄三郎氏家四世佐兵治の弟兵助より三代目の加藤利兵衛方に入婿し、利兵衛を襲名し、その四代目となったもので、窯は瀬戸の丸窯(磁器登窯)を用いたというが、詳らかではないです。当時の磁器は二合肩張徳利、二合鳶口徳利、切立花筒、茶碗、土瓶等であります。新製と呼ばれるやきものが隆盛したのは、利兵衛が磁器導入によるものとして磁祖として尊崇してきました。江戸末の磁器が桜ヶ根から出土しています。
「丸窯」と呼ぶ窯が桜ヶ根の大正の絵図に描かれていますし、明治の初めに急速に発展した下石窯業は、利兵衛の功が大なるものがあります。陶器、磁器の技を持って移住した庄三郎利兵衛と窯業を志した先人たちの尽力により、今日あることに感謝し、益々発展を祈念して、毎年4月に陶祖祭を続けています。
陶祖碑文は下記にあげてあります
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冊子「火童子(ひわらし)窯」
「下石町の産業観光の拠点として下石村に約400年前(下石陶祖、加藤庄三郎氏家が桜ヶ根に連続式登り窯を築炉したのが元和7年西暦1621年)より栄えた登り窯を築炉したい」と、平成15年度から計画、「下石町づくり委員会」を発足、平成16年9月に完成、11月火入れ式という事で、登り窯(火童子窯)の築炉を記念し、平成17年3月に下石工組編集、下石町町づくり委員会(委員長 林宏美氏)発行で「火童子窯」という冊子を発行しました。
平成16年当時下石工組理事長 土本晋平氏の序文より抜粋
第一章~第四章からなる資料を抜粋してご紹介いたします。
※この冊子は、小原克郎氏、安藤英夫氏、寺井せい明氏、加藤隆一氏、古川秋夫氏、大橋康男氏、 土本晋平氏、および青年会議所より資料のご提供を受け作成いたしました。
参考資料 Wa 和 下石窯800年の歩み ロクロの里 美濃焼の焼物 登り窯ばんざい
第一章 写真で見る足跡
土本晋平氏の撮影された写真データより冊子に載せきれなかった分もアップしました。
登り窯築炉の様子を順にご覧ください


























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第二章 登り窯の歴史と変遷について
セラテクノ場長 大橋康男さんに執筆していただきました。
美濃焼の歴史は1300年前にさかのぼるが、下石のやきものの歴史は鎌倉時代に始まったとされ、800年もの歴史を有するやきものの産地である。
○美濃焼きとは・・・・・・・
そもそも美濃焼とはどこまで指すのか、大変分かりにくいものであるが、土岐市を中心に多治見市、瑞浪市、笠原町などで生産される「やきもの」を総称して美濃焼という。美濃地方にやきものが作られるようになったのは、良質な粘土が豊富に流出したのが要因である。
古代には、縄文土器・弥生土器・古墳時代には土師器(はじき)があり、いずれも野焼き程度のやきものであった。本格的な丈夫なやきものが作られたのは、5世紀に須恵器が朝鮮半島から伝わったことである。須恵器を焼いた窯は、山の斜面に穴を掘って作ったことから「窖窯」(あながま)と云われる。
平安時代、10世紀になると、愛知県・猿投窯から「うわぐすり」を使った釉陶器が伝わり、このやきものを「白瓷」(しらし)といい日本の陶器の出発点である。
室町時代、15世紀に入ると、瀬戸のやきものが美濃に伝わり、瀬戸で焼かれていた灰釉、鉄釉をかけた新しいやきものが作り始められた。
特に、この時代には中国・宋時代の青磁・白磁・天目などが沢山入ってきて、大変大きな影響を受けている更に、焼成技術も向上し「匣鉢」(エンゴロ)が使われるようになり、窯の有効利用から量産が可能になった。
15世紀末期頃、地下式の「窖窯」から地上式の「大窯」が築かれ、灰釉・鉄釉の新しいタイプの碗・皿・徳利・すり鉢などのやきものが焼かれるようになった。
16世紀中期には灰釉が改良され、線彫りや印花の文様がつけられ「胆礬」(タンパン)で加飾された「黄瀬戸」が出現する。灰釉に長石を加えた「灰志野」ができ、更に、長石のみで作られたうわぐすりの「志野」が誕生するのである。志野釉は流れにくい性質があり、日本で始めて筆により文様を描くことが可能になり、鉄(サビ)を使って様々な文様が描かれた器が焼かれるようになった。
これらのやきものは、室町時代末期の「わび・さび」の茶の湯の広がりから茶道具としても盛んに作られた。いわゆる安土桃山時代から江戸初期にかけ、豪華絢爛な安土桃山文化が開花し、優れた美術工芸品が数多く創出される時代に即応するものであった。
その特徴として、これらを「美濃陶山陶」といわれ、茶の湯の流行と共に茶匠、千利休によって確立された「好み」で、様々な「技法」で生み出された志野・黄瀬戸・瀬戸黒など優れたやきものが焼かれるようになったこの頃になると、こうしたやきものの重要は全国的に広がりを見せ、量産の出来る窯が必要になり、当時最新式の「連房式登り窯」が九州・唐津から導入された。
この窯で古田織部によって創出された、かつてない斬新なデザインの「織部」が登場するのである。その特徴は今までにない歪のある形状、非対称的な形状であり、文様も幾何学文、抽象文など、多岐にわたって描かれている。
しかし、古田織部の没後、茶の好みも変わり「御深井焼」(おふけやき)」という、やきものが好まれるようになり、茶の湯の世界から織部は遠退いて行くのである。
江戸中期になると、新たな需要販路を「江戸」に求め日常食器、鉄釉・灰釉の碗、皿、徳利などが大量に作られるようになる。
このように陶器質のやきものが長い時代作られていたが、江戸時代初期に磁器質のやきものが九州、有田で「李参平」によって、磁器の原料・陶石が発見され、日本で初めて白い磁器が登場するのである。すでに、やきものの生産地であった瀬戸に19世紀、この磁器の製法が伝わり、盛んに作られるようになった。このため、東日本では「やきもの」を瀬戸の物「セトモノ」と呼び、窯元、商人をちゃわん屋と今でも呼んでいる由縁である。
美濃にも磁器の製法が伝わるや、これまでの陶器質のやきものから白くて硬い「磁器」が生産の主流になった。これに伴い、今までにない新しい青色の文様「染付け」が登場する。染付けに使用する顔料を呉須といい、山から産出する石に付着した原料、紺青(こんじょう)マンガン・コバルトを含んでおり、取り出し、細かく粉砕、精製し文様の絵具として使用する。後にコバルトが明治時代になると輸入されるようになりこれが絵付顔料の主流になる。
明治時代に入ると、更なる需要にこたえて生産体制を整え、型紙を使用する新しい技法「摺り絵」、エッチングによる「銅版印刷」など新しく開発されていった。
この時代には、大きな「流通」の変化があった。それは鉄道網が整備され、瀬戸経由で出荷されていたやきものが、鉄道によって全国に販路を拡大し、「美濃焼」としての一大産地となった。
下石の登り窯の歴史は、古文書によると加藤庄三郎家(陶祖)が、元和元七年に「桜ヶ根」の北に面した土地で「連房式登り窯」を築き、窯業を始めたとされる。
○登り窯とは・・・・・・・・。
山などの傾斜面の勾配を利用して火度を上げる構造の窯。東洋に多く見られ、中国では「竜窯」、朝鮮半島では「蛇窯」と呼ばれる。朝鮮半島でも高麗時代高麗青磁、粉青沙器など焼かれていた。文禄・慶長の没後、これらの朝鮮半島の技術が導入され、九州一帯で築窯が広まっていった。
この後、唐津より久尻窯・景延が登り窯の技術を学んで築いたとされるのが泉町久尻に保存されている「元屋敷窯跡」はその代表的なものである。
下石の登り窯・「桜ヶ根」で焼かれた製品は、灰釉・鉄釉・御深井の碗・皿・鉢・仏具・水滴・水差しなど焼成し、この一帯は江戸中期以後、美濃窯の中心として栄えた。更に、窯の改良が重ねられ、炎の調整、温度管理、焼成品の安定ど機能的にも進歩すると共に、窯の規模が大きくなった。
江戸後期になると、瀬戸から磁器質の製法が伝わり、炻器に近い時期が焼かれるようになる。これは当時、画期的な製品の誕生であったといえる。これには原料が大きく関わっていることが伺える。浦山に良質の蛙目粘土は隣の土岐口・粘土坂珪石、粘土を調合して作られている。その後、蛙目粘土は隣の土岐口・粘土坂(ねっとざか)に安価に産出するようになり、こちらに原料を求めてゆく。
明治時代に入ると、焼成法が変化し、酸化焔焼成から還元焔焼成になり、より白く丈夫な「やきもの」が生産できるようになる。
更に、登り窯は改良され、大量生産にあうよう窯の規模も大きくなり、質的に薄いものを作るため、蛙目粘土の強粉(耐火度の高い粘土)を調合し、薄い製品の開発も行っている。更に、特筆すべき点は碍子の生産である。なぜ碍子か、これも長年培ってきたロクロの技術力である。
下石は「ロクロの里」として、徳利を磁器質粘土で成形する技術がある。この技術力で生まれる徳利は、登り窯で焼かれ、他の産地でその姿を消してゆくのに昭和40年まで生産が止むことはなかった。全国のやきもの産地でも例を見ないものであろう。
窖 窯
鎌倉・室町以後、須恵器・自瓷窯など、山の斜を利用して作られた窯を、「窖窯」という。時代は長く5世紀から15世紀まで約1000年、久尻に連房式登り窯が出現するまで続く。
登り窯
九州・唐津より、「唐津式連房式窯」が伝わり、窖窯に変わって作られた。久尻に保存されている「元屋敷窯跡」はその代表的なもの、最盛期には国内最大、織部を主とする幾多の名品を焼く。登り窯は大正初期から増加、高温で長時間焼くため高品質の製品が出来た。昭和27年に、下石に68基あり、石炭窯、電気窯、ガス窯に変わり、昭和40年、8基あったが姿を消す。
石炭窯
明治後半、石炭窯が造られ、大正時代に入り増加、普及の要因には、スピード化、高能率、焼成時間の短縮。昭和47年頃、減少に展示燃料革命から次世代の重油窯が普及。
重油窯
昭和47年にピークを迎えるが、下石は45基が稼動、重油窯の特徴は、高カロリー、高温焼成(SK13、1380℃)が可能。酸化、還元焼成が可能、高品質化。LPGの普及から、ガス窯に移行。
トンネル窯
昭和10年にトンネル窯が出現、昭和38年には経済成長と設備近代化で普及、燃料は重油をしよう、連続焼成、余熱、除冷が出来、熱効率が良くなったが量産形から、小回りの効くガス窯に生産体制が移行。
ガス窯
昭和37年頃普及し始め、下石で昭和62年をピークに約130基が稼動、現在に至る。下石は、酸化焼成、還元焼成と両方の仕様がある。電気窯の普及が大きく関わっている。深夜電力わ普及させた経緯がある。これがガス窯に移行。電気窯は昭和47年頃をピークに現在、約半数位が稼動
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